痛みの中に、価値を見出せるのなら
私の"人生を変えた本"の一冊に、ヴィクトール・フランクル著の「夜と霧」がある。
第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に入れられた精神科医の話だ。
この本で強烈だったのは、フランクルが語ったある一人の仲間の話だ。
彼は大切な家族を奪われ、収容所で自分も死に直面してなお生きる意味を見出していた。
人間は、動物とは違う。
物事に対して、リアクションする前に、理性をはさむことができる。
例えばどんなに激しく鞭で打たれても、痛い!とそのまま反応する前に理性がある。
どう反応するのか選べるし、その痛みに何かしらの価値を見出すことだってできる。
私は別にナチスの強制収容所にいるわけじゃない。
それに比べれば天国みたいなところにいるけれど、それでも嫌なことは起こるし、たまに誰かの言葉に傷つけられる。
だけど、その嫌な出来事も自分の中で上手く昇華しながら生きていきたいと思う。
これは、きっと自分がひとつ賢くなるチャンスなんだな。
これは、神様が私に与えてくれた試練なんだな。
神様でも運命でも、何でもいいから、そういうふうものを口実に上手く苦しみや痛みに価値を見出していきたい。
だって、一回そういう風に物の見方を変えてしまえば、楽になるのは自分だから。
物事は正しい方に向かって流れていく。
この抽象的で、全く根拠のない、しかし世界に対する絶対の“信頼感”みたいなものを得てから息をするのが楽になった気がする。
日本では昔からド根性精神的な、苦しみの中でとにかく耐える美学みたいなものが信仰されている風潮が否定できないけれど、それを自分の人生に全て採用する必要はない気がする。
“天才”とよばれる人で、苦痛に満ちた顔で生きている人はいない気がする。
スティーブ・ジョブズも大谷翔平選手も、やっぱりどこか楽しそうだ。
ある人が言っていたけれど、天才は「どれだけ苦しくても、一生懸命努力し続けられる人」ではなくて、「壁にぶつかって、今までのやり方が全く通用できなくなっても、そこで新しいやり方や壁を突破する方法を見つけることができて、更にその過程の中に楽しみを見出すことができる人」だと言っていた。
そう、“楽しみ”というのが正解には不可欠な気が最近する。
あなたがやらなくちゃ!と思っていること、それが“正しい”と思っていることに、少しでも“楽しみ”がありますか?
ほんの少しのJoy、忘れずに生きていきたいです。
Written By あかり
アラサー女
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