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なぜ若者は笑うのか

「ちょっとそこまで」傘を持たずに出掛けたら突然の雨に降られ、ビショ濡れになってしまった。水も滴る中年女。がんばれ。

 家までたどり着くと同時に、空はまた晴れ渡る。いたずらのように虹が出る。最近の日本の雨の降り方は、まるで南国のスコールだ。予想する暇もなく降ったり止んだりする。

 窓から通りを眺めると、通学途中の学生たちが制服姿でぴょんぴょんジャンプしている。それから今度は犬のように全身を揺する。どうやら雨粒をはね飛ばしているものらしい。そして笑うーー。


 なぜ若者は笑うのだろう。面白いことなど何も起きてはいないのに。服やカバンが濡れて、髪の毛もぺちゃんこになったりして、大人が泣きたくなるような場面で、若者は笑う。「ウケる」とか言う。

 ーーたぶん自分もそうだった。若い頃は四六時中、笑っていた。そしてやはり面白いことなど何も起きてはいないのだった。まるで猿の群れだ。一匹が叫ぶと、とたんにあっちにもこっちにも飛び火して、みんなで手を叩き、歯をむき出しにして、なんの理由もなしにヒステリーな笑いの連鎖が起きる。時々、放心したようにしーんと静まり返っては、沈黙に堪えられなくなった誰かが言う。
「今、天使が通ったね」
 そしてまた、発作のようにどっと笑う。笑わずには生きられない。

 赤ん坊が「泣くこと」で周囲の気を惹き生命維持をしているように、若者は今「笑う」段階にある。家族以外の誰かとコミュニケーションを取るには、何より愛想笑いが必要だ。これは生理現象である。何も面白くなくたって、生き抜くために勝手に笑えるようにできているのだ。国によっては、枯れ葉が舞うだけでおかしかったり、帽子が落っこちただけで笑っちゃったり、日本ならば、箸が転がっただけで「ウケる」のである。

 そして大概の大人は「怒る」段階にあるようだ。責任ある立場として、子供を叱咤激励したり、世の不正を追及したり、悪と戦ったり、自分に厳しくしたり、失望したりーー。

 泣くことと、笑うことと、怒ること。どれも生きるための能力である。しかしその先はどうなるのだろう。「怒り」が最終段階なはずはない。そんなのは毒をもって毒を制すようなもので、さっさと卒業するに限る。高齢者をよく観察してみよう。歳をとったとき、我々はどの能力で生命を維持するのが最適か。何が生きる原動力となるのか。
 老いや病気を嘆くことか、強者に媚びることか、死を恐れることか、恐れないことか、人に感謝することか、欲を手放すことか、追求することか、老人らしくあきらめることか、悲しみを受け流すことか、あるいは赤ん坊のように再び泣き声を上げるのかーー。

 
 赤ん坊だった頃も、若者だった頃も、そして今も、私は自分の思うような生き方が十分にできているとは感じていない。もちろん現状に満足する謙虚さは大事であるが。それにしたって私の人生にはいつの時代も耐え難い不快感がつきまとってきた。「誰にも迷惑を掛けずに自由に暮らしたい」私の望みはそれだけなんだけれど。どうなることやら。

 また雨が降りだした。鳥たちも困惑している。カエルは嬉しそうだね。




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