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国立アメリカ歴史博物館所蔵の日本製のホニトンレースについて見ていたら、明治時代初期に12年間だけ存在した東京府レース製造教場の生徒につながったという話

いつものようにネットを散歩していたところ、国立アメリカ歴史博物館(以下博物館)所蔵、明治期の日本製ホニトンレースを見つけた。同じデザイン(シンメトリー)のペナントのペア3組とjabot(襟飾り)1点の計7点。

アメリカ歴史博物館所蔵の日本製ホニトンレース
① Japanese Made Honiton Bobbin Lace Pennant
 
DATE MADE  1890-1905    ID NUMBER  TE.E260960B
(説明文には1880-1910になっているし、ペアで所蔵されているもう1点は1890-1910になっている)

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https://americanhistory.si.edu/collections/search/object/nmah_633966

② Japanese Made Honiton Bobbin Lace Pennant  
DATE MADE  1890-1905    ID NUMBER  TE.E260960B

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https://americanhistory.si.edu/collections/search/object/nmah_633962

③ Japanese Made Honition Bobbin Lace
DATE MADE  1870-1885    ID NUMBER  TE.E188216B

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https://americanhistory.si.edu/collections/search/object/nmah_624361

④ Japanese Made Honiton Bobbin Lace Jabot 
DATE MADE 1880-1887    ID NUMBER  TE.E188215 
(これはjabotなのか?lappetの半分のように見える)2023.7.13タイ付きjabotの半分ということ?

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https://americanhistory.si.edu/collections/search/object/nmah_624223


7点全部のリストはこちらで。
https://americanhistory.si.edu/collections/search?edan_local=1&edan_q=japanese%20made%20honiton&edan_fq%5B0%5D=online_visual_material%3Atrue

ホニトンレースは、イギリスのデボン州で作られていたボビンレースで、ホニトンの町から出荷されたことからそう呼ばれるようになった。(有田周辺で作られて伊万里港から出荷された磁器を伊万里焼と呼ぶのと似ていますね)

博物館は①の説明の中でペナントを「上質なホニトンボビンレースで、素晴らしい技術」と評価している。

(ここまでは、わーい!明治時代の日本製のホニトンレースを見つけた!鶴と梅のレース、面白いなあ!だったのですが...)


博物館のレースについて

デザインを見ると①は鶴と梅の花、②藤の花、③葡萄、④蝶と百合、薔薇の花。①、④は私がイメージするデヴォン産のホニトンに比べて、鶴の翼や花びらの中に様々なデザインのフィリングが多く入れられているのが面白い。

推定制作年代は③の葡萄デザインのペナントが一番古く1870年から1885年、④のjabotは年代の幅が狭く1880年から1887年、ほかの作品もあわせるとこれらの作品は、1870年(明治3年)から1910年(明治43年)に作られたものということになる。


東京府レース製造教場

では、日本のどこで作られたものなのだろう? 

『レース 歴史とデザイン』(アン クラーツ著 深井晃子監訳 1989)には「日本では、日本政府が1870年代に設立した横浜のレース教習所が唯一の教習所だったようである」とあるが、どんなレースが教えられていたのか記されていない。また『アンティークレース 16世紀から20世紀の美しく繊細な手仕事』(市川圭子著 2020)には「日本では明治時代に、横浜の官立レース教場でイギリス人教師ガートルード・スミスがホニトンレースの技術を教えました」とある。この情報をたよりに検索してみてもそれ以上は見つからなかったので、以前見つけてブックマークしたままにしていた以下の論文を読んでみることにした。

「研究ノート 東京府レース製造教場における国産品の制作」(安蔵 裕子 佐藤 瑞穂 2016)(以下 研究ノート)

https://core.ac.uk/download/pdf/268257143.pdf

私なりに要点をまとめると、

日本初のレース教習場とされる(ことが多い)東京府レース製造教場(以下レース教場)は、明治12年(1880)設立、明治25年(1892)に閉鎖された。12年間、国の主導による近代化政策の一つとして試みられた。当初は士族の授産事業として士族の子女から学生を募集、のちに対象を広げる(注を見ると他の論文などで設立年の異同、クロッシェレースから始めたなどの伝もある)

「ポインツレース」(ニードルレース)「ハニトンレース」(ホニトンレース)「リムリュックレース」(リムリックレース)アプリケレースを太糸から始めて1年半の教程で学んだ。学費は無料。材料、用具は支給、貸与された。授業時間は、明治13年の週12時間から明治17年には週36時間に増えている。外国人教師として、横浜在住のイギリス婦人3人を状況に応じて雇用していた。

制作していた品名は「襟紐先キ」「ハンケツ(ハンカチ)」「礼服縁飾」「襟紐」など。
模様は「バラ」「花丸」「桜楓」「楓藤」「楓=七宝」「四季草花」「楓」といった日本伝統模様のレースが中心。早い時期から「東京府庁勧業課縁飾掛り」担当の畔柳覚次郎が洋風のデザインに倣うのではなく日本風の模 様の下図を描いて生徒に制作させていたらしい。(後述の海外での好評につながる)

工賃を価格に加えると「極めて貴く」なることから、販路の拡大のため特別な場合(後述のオランダの博覧会の時に高値で販売された場合など)を除き、まずは原価(材料費)を価格とした。

レース教場が設立された翌年から、内外の博覧会に積極的に出品していた。
明治16年(1883)オランダのアムステルダム万国博覧会に出品された7点は、1点の洋風のデザインを除き、日本の伝統的植物をモチーフにして制作。澤よし子他の制作したレースは銀牌を受賞したり、ベルギー内務卿らに称賛され購入契約が取り交わされたりと、高い評価を得た。

また、レース教場はレース販売所も兼ねていて、製品の品質を保証するためベルギー、イギリス、フランスで作品の鑑定を受けている。いずれの国からも技術を称賛され、特に日本独特のデザインが評価された。ただ、フランスの鑑定者はレースは精巧で美しいが一般の需要にこたえ販路を確保するためには、もう少し簡素なデザインにして価格を抑えるべきと助言している。

高い技術を持っていたにもかかわらず、12年で閉校した背景には、当初の対象とした士族の子女が思うように集まらなかったこと、時代のニーズに合わなかったこと(マシンレース登場後もっと一般的なレースに需要が移った)などがあったようだ。


所蔵品のレースは東京府レース製造教習場が制作したものなのか?

レース教場制作のレースのデザインは、日本の伝統模様が中心だったことや、藤や葡萄柄(上のまとめには引かなかったけれど、フランスの鑑定者に評価された)を制作していたらしい。これは、鶴や梅を描いた①、②の藤、③の葡萄と博物館所蔵のレースのデザインに通じる。

ボーダー状ではないものの④のjabotの薔薇の花の表現は、上記研究ノートにある下の図案とよく似ている。

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下はデヴォン産のホニトンレースの薔薇の花の例(花丸みたいな簡略化したデザインのものもある)

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(この研究ノートの中では、1870年代の横浜の教習所(または教場)とのつながりは分からないけれど、博物館の所蔵品と東京府レース製造教場はつながるかもしれない?)


制作者の名前からつながる

そっくりそのままの図案など、レース教場と博物館の所蔵品をつなぐものがどこかで見つかると面白いと思いながら、もう一度博物館のページを見ていたら、一部の作品のcredit lineに日本人の名前を見つけた。(①②のcreditはInterior Dept., Bureau Education Museumとあったので全部同じだろうと思って見落としていた)

③ Mif S Shinanokoji, Tokio, Japan, 1889 ぶどう柄のペナント 1870-1885
④ Mik Y. Sawam, Tokio, Japan, 1889 薔薇と蝶のjabot 1880-1887

そこで、もう一度上記研究ノートを見なおしたところ、明治14年(1881)の内国勧業博覧会受賞者の代表として信濃小路章という名前を見つけた。この時期本格的なレースを作る信濃小路が2人いるとは考えにくい。これは③のcreditにあるS.Shinanokojiではないか?

とすると、明治16年(1883)開催のアムステルダム万国博覧会に出品者代表で名前が挙がっている澤よし子が④のY.Sawamなのではないのだろうか?
(Sawamの"m"は誤記?)

(2人の名前の前の”Mif"と”Mik"はわからない)

(つながった!!!)

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2人とも在学期間が博物館の制作年代に重なっているのも、在学中に制作したと考えられそうだけど、どうなんだろう?

研究ノートには、「受賞の代表者として名前が公表された信濃小路章が土橋小糸とともに京都府から派遣 された人物で、レース編み技術伝習という任務のためにレース教場で学んでいた」とある。

信濃小路章が1881年の内国博覧会で受賞した。また、明治17年(1884)の卒業生を伝える8月8日付の新聞記事の中に澤美(よし子)とともに名前がある。履修期間1年半を考えるとこの2つの数字は矛盾するのだが、(私がどこか見落としているか)、それでも③の制作年代とされている〜1885年(そもそもこの年も確定ではないが)をあわせると京都府女学校教師として赴任した後の作という可能性もある。いずれにしても、少なくとも③は、そして多分④も、レース教場時代かどうかはさておき、教場の学生か卒業生の作品と考えて良いのではないか。

(^^)


明治初期に、殖産興業、欧風化の政策の一つとしてレースが取り上げられてレース教場が設立された。その生徒たちは1年半で本場のヨーロッパで認められるような技術を身につけた。

西欧世界に登場したばかりの日本と、日本の文物をジャポニスムとして関心を寄せる19世紀後半の西欧の人々。西欧のものであったレースに日本風な模様を用いた背景にも興味が惹かれるし、国の政策だけでなく、レース教場で学んだ女生徒の意志と熱意に思いを馳せもする。その証としての実作品を見ることができて、ワクワクしたのでした。


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