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北島マヤには、なれないのだけれど



 空想することが好きなたちである。思い出せる限り昔からずっと。
 なぜ、どうして、が起点で、こうだったらいいのに、が終点。
 どうして白馬に乗ったおうじさまはいつまでたっても現れないのかしら。と思っていたらついに出ました、白馬に乗ったおじいさま。ポケットからひらひらと何かが落ちて、呼び止めようとしたけれど、振り返ることもなく行ってしまわれた。もうお耳が遠いのかもしれませんね。
 それは年末ジャンボの超超超当たりくじであった。
 もちろん、小市民穂音は警察に届けるのだよ。でも持ち主は現れず。
 うちのマンション前の二百坪くらいの更地を買って、小さいけど品のいいお家を建ててもちろん平屋でね。庭に木を植えまくって、お手入れは庭師さんにお願い。憧れの家庭菜園、駆け回るうちのお犬。おうちの掃除はダスキンに丸投げして、伝説の家政婦さんがお食事作ってくれて。そうそう固定資産税も払って、それでもまだお釣りがくる穂音さんは末長く幸せに暮らしましたおしまい。

空想:現実からかけ離れている(実行することが出来ない)ことを想像すること。
想像:実際に見え(聞いたことの)ない物事について、多分こういうものだろうと頭の中で考えること。
妄想:あれこれと想像した頃を事実であるかのごとくに堅く信じてしまう心的傾向(穂音注・自分としては仏教用語、医学用語という色合いが濃いと思っています)
新明解国語辞典第四版(1989)より


 創作を語ろうとすると遭遇する「降りてくる」とは。
 どんなものが、いつ、どこから、どのようにして。
 天より降臨するのか。
 それともひたひたと後ろをついてくるのか、振り返れば座敷童のようにそこにいるのか。
 うにょーん。
 そして、金ですか、銀ですか、木ですかと訊かれるのか。


 わたしの空想は何がしか現実と紐づいているのであって。単体で浮遊しているものではございませぬ。
 いま、BGMを流していたりなどする。するとなんということか、ペットショップボーイズのエイトビートが、穂音家昭和の振り子時計「カチカチカチカチ」に一致したりするわけです。
 すげい! 
 お気づきの通り、これはただの「事実」です。こんなことがあった、というだけ。
 そういう瞬間が、人生にはたくさんあります。全部、どこかにしまわれていきます。

 それが別の日にひょっこり出てくる。
 あの時のあれだ、と思い出すこともある。でも覚えているという自覚がないものも多いのではないかしら。
 そこで仮説その一
 空想とは、以前に記憶した何かである。


 Noteで嬉し恥ずかし書き散らすことができて、とても楽しい。書ければいいと思っていたけれど、スキとかコメントとか頂くと、くるくる回るくらいに嬉しい。お犬に口づけして舞い踊り舞い上がる日もあります。ありがとうございます。
 書きたい書きたい、と思っていると。
 すげい! と思うものが増えてくる。
 しまう。
 その繰り返し。
 おぼろげにむくむくしてくるものがある。
 あるがままにしておく。
 いつの間にかあっちにしまったものと、こっちにしまったものが手を繋いでいる。
 輪郭がはっきりしてくる。エッセイだと道筋がついてくるし、小説だと主人公の気配が濃厚に感じられる。ここに共存しているわけではないけれど、何かを隔てたあちらにも世界がある。書きどき到来。

 十年ほど前から、作詞作曲などするようになった。時々、noteでも嬉し恥ずかし放流しております。聴いてくださったみなさまありがとうございますお元気ですか。
 最初どうすればいいのかさっぱりわからず、自作曲を持つ友人にどうやって作るのかと尋ねてばかりいた。
 小説はどうやって書くのか、という問いは、この頃の自分の心境に近いのかもしれない。
 作りたい生み出したい。
 様々な事実事象をつかまえて、咀嚼して、取り込んでいくのに動力が必要で、そのエネルギーとなる感情なのだろう。
 芽を出す小さな何か。しつこいけれど、それは自分という土の部分から紐づいているのであって。単体で浮遊しているものではありませぬ。
 そこで仮説その二
「降りてくる」とは、気にして気にして、気にするという行為が無意識になるほど気にし抜いたところで、自分のアンテナが引っ掛けたものである。


 この全てのプロセスを自覚なく、無意識にできてしまうことを「才能」と呼ぶのではなかろうか。
 才能溢れる天才少女は北島マヤの方である。
 意識的に一つ一つ積み重ねた結果、無意識の境地に辿り着いた努力の天才が姫川亜弓。
 わたしは北島マヤにはなれないからね。追いかけるのは姫川亜弓の背中。


 小説の書き方、についての書籍は沢山あり、何冊か読むと大体言わんとする基本事項みたいなものが見える。
 奇しくもnoteから「ショートショートnote」なるカードゲームが発売されていて、これも入り口の一つである。ショートショートnote杯も開催中。ショートショートの神様と呼ばれた星新一氏も、自分でこのような工夫をされていたと読んだことがある。
 でも、み・カミーノさんがお知りになりたいのはそういうことではないような気がする。


 この記事の中にこんな一文があった。

 文章も事実に基づいたものは書ける。事実8割、想像2割くらいだったらなんとかイケる。


 あ、もう入り口に立っておられる、とわたしは思った。
 空想とか想像について、「百パーセント憑依する」と思っておいでなのだとしたら、それは違う。少なくともわたしはそうではないので。しつこいけれど、わたしの空想は自分の取り込んだ事実に紐づいているのであって、意識的にしろ無意識的にしろ、何がしかの作為が入り込んでいる。
 そして仮説その三
 つまるところ、事実は空想のマザーである。み・カミーノさんの中にはたくさんのマザーがあるので、作為というトレーニングにより空想が発芽すると思われる。

 仮説その一再び。
 空想とは、以前に記憶した何かである。
 言葉を冷静に観察しつつ展開してみるのもまた、入り口の一つ。

 以前っていつのことよ。
 自分が生まれる前だったらどうなのよ。
 こんなテーマで、ヘンテコ小説「ミズ・ミステリオーザ」シーズン2へ向けて萌芽しております。へへ、宣伝ちゃっかり。


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