ベルセルクの結末を妄想したら意外なルートにたどり着いた
本日報道があり、ベルセルクの作者である三浦建太郎先生が亡くなっていたことがわかった。現在、とても大きな喪失感に襲われている。
まずはベルセルクという途轍もない名作を産みだしてくださったことに敬意と感謝を表し、ご冥福をお祈りしたい。
ベルセルクは未完の大作となってしまった。自分はこの物語の結末を本当に楽しみにしていた。楽しみにするあまり、記事を書いてしまったほどだ。
とはいえ、こうなってしまった以上、三浦建太郎先生の構想していた結末は知ることが出来ない。以降の展開は読者が考察と想像で各自埋めていくしかないのだろう。
というわけで、41巻以降はきっとこうなったんじゃないかな、という内容を色々と考えていた。そうしたら、ガッツとグリフィスの関係に清算をつけつつ、三浦先生が口にしていたという「ハッピーエンド」に到達するルートが見えてきた気がする。ここに書き留めておきたい。
前提①:復讐は主軸にならない
ベルセルクは「復讐の物語」として読むことが可能である。自分を含む鷹の団を裏切って生贄に捧げ、自分の恋人を寝取ってみせたグリフィス。彼への復讐の物語である。本日も記事を巡回していてそのような表現を見かけた。
特にロストチャイルドの章において、ガッツは復讐鬼として強烈に描写される。元は少年少女だった妖精たちも容赦なく殺し、妖精たちの繭から出てくる液で自分についた火を消火する。この章の印象だけでいえば、ベルセルクは復讐の物語であると言いたくもなるだろう。
しかし、復讐心を優先した結果、ガッツはキャスカと離れ離れになってしまう。そして断罪の塔の章を経てキャスカと再会したガッツは、復讐よりもキャスカを保護し、記憶を戻すことを優先するようになる。
2つの章を通じ、ガッツは復讐よりも大事なものが存在することに気づき、優先するようになる。その変化が丁寧に書かれているのだ。だから、この作品が復讐の物語として完結する(=グリフィスを討つことをハッピーエンドの条件とする)ことはないだろうと考えている。(※)
前提②:ガッツは復讐者というより、抗う者
ベルセルクの世界は因果律に強く支配されている。グリフィスが覇王の卵を手にしたことも、ゴッドハンドとなったことも、あらかじめ決まっていたこととして描写されている。人々がそれぞれ自由意思で生きているように見えて、実はがんじがらめの世界。それがベルセルクの世界なのだ。
しかし、その世界において、断固として因果律に従わない男がいる。ガッツである。生贄としての刻印が刻まれても、断固として亡者を退けつづける。グリフィスがゴッドハンドという別次元の存在になっても、執拗に挑み続ける。そんなガッツを、髑髏の騎士は「抗う者」と呼ぶ。
ガッツがファルネーゼに対して放った名台詞がある。
「祈るな。祈れば手がふさがる」
この言葉が象徴するように、ガッツという主人公は、運命にも神にも期待しない。自ら考え、闘い、自分の意思を貫き通そうと抗い続ける。そういう存在として描かれているのだ。
だからこそ、ガッツがこの物語を通じて成し遂げることは、自分の復讐心を満足させることではなく、世界の因果を断ち切ることとなるだろう。
さて、妄想に先駆けて、物語の結末を考える上で不可欠な要素を列挙してみよう。
①作品の主題は復讐劇ではない。
②ガッツは因果で支配された世界における、「抗う者」。
③狂戦士の鎧はガッツをズタズタにする。拷問後のグリフィスのように。
④ガッツの周りに集まった仲間たちは、かつての鷹の団のよう。
⑤ガッツのベヘリットも、いずれ因果に従い涙を流すだろう。
⑥因果律を司る、深淵の神という黒幕が存在する(単行本非掲載の83話)。
以上の条件から、先の展開をかっ飛ばし気味に妄想しよう。
妄想1 旅立ち
記憶を取り戻したキャスカ。しかし、それは蝕の記憶と向き合うことを意味していた。それでも、なんらかの出来事を経てキャスカはトラウマを乗り越える。
さて、これからどうしようか。グリフィスに復讐を果たしに行くべきか。いや、妖精郷にとどまり、穏やかに暮らし続けるべきか。ガッツたちはそんな話をするかもしれない。しかし、物語の構造を考えれば、やはり何らかの動機でグリフィスのもとに向かうことになるだろう。そして、その動機は「復讐」ではありえない。「世界のためにも彼を止めなくてはならない」「一発ぶんなぐってやる」とガッツが言い、キャスカも「一言いいたい」と応じる。そんな動機でグリフィスのもとを目指す旅が始まるのでは。
妄想2 激闘
ガッツ一向は激闘を繰り返しながら、グリフィスに近づいていく。グリフィス側近の使徒たちはメチャクチャに強いため、ガッツは幾度も狂戦士の鎧の力を借りることになり、味覚や視力以外にも様々な損傷を受ける。
ガッツはグリフィスのすぐ前にたどり着くが、もうボロボロ。ゾッドあたりに歯が立たず、動くこともできなくなる。その姿は拷問後のグリフィスそっくりであった。ガッツを涼しい顔で見下すグリフィス。しかし、超越的な存在となっているはずのグリフィスも、ガッツの姿に何かしら心を動かされていることを自覚する。
妄想3 ベヘリット
ここで、パックがずっと持参していたベヘリットが涙を流す。周囲は異世界となり、ゴッドハンドが目の前に並ぶ。ヴォイドはガッツに尋ねる。
「キャスカ、パック、イシドロ、ファルネーゼ、セルピコ、シールケらを捧げろ。そうすればお前は使途として生まれ変わることができる。生身の人間として使途を撃破してきたお前ならば、ゴッドハンドとなったグリフィスとも戦えるかもしれない」
しかし、ガッツは意地でも「捧げる」ことを選ばない。それでは復讐の対象だったグリフィスと同じになってしまう。それに、復讐よりも大事なものがあることはとっくに学んでいるのだ。
妄想4 グリフィスの建国物語の真意
瀕死のガッツを前に、グリフィスは言う。「少し話したい」と。グリフィス、ガッツ、キャスカあたりを中心とした会話が繰り広げられる。髑髏の騎士もこの会話に参加し、この世界が因果律によってコントロールされているという話になる。単行本未収録となった83話、そこで出てきた「深淵の神」のことだ。
グリフィスもまた、因果律の支配に対して彼なりの抗い方を試みていたと語る。詳細は不明だが、世界そのものを作り替えることで、深淵の神自体が不要となるような構造を作ろうとしていたのではないか。
しかし、グリフィスの試みは成功しなかった。なぜだかわからないが、うまく行っては自分の妄想に都合が悪い。本質的にゴッドハンド(=神の手先)だからダメだったとか、副作用として元の世界と幽界の境界があいまいになってしまった影響も強かったとかだろう。グリフィスがどれだけ尽力してもなお、因果律の支配は変わらない、あるいは色濃くなっていた。
妄想5 喚び水の剣とドラゴン殺し
髑髏の騎士は、喚び水の剣を持っている。異界と現世の扉を開く道具である「ベヘリット」を練り上げて作った剣だ。これを使えば深淵の神と対峙することができると告げる。そして、深淵の神にダメージを与えうるのは、因果に抗い続けることで特殊な力を帯びたガッツの大剣、ドラゴン殺しだけだということになる。
グリフィスは瀕死のガッツに提案する。キャスカやイシドロ達ではなく、グリフィスを捧げることで使途となり、その大剣を持って深淵の神と戦ってほしいと。それがグリフィスにとっての清算にもなると。
こうして最強の使途が生まれ、なんやかんやバトルがあり、ガッツは勝利する(相打ちかな)。
妄想6 エピローグ
世界は以前の形を取り戻していた。そこにガッツとグリフィスの姿はない。それは一部の人間にとっては物足りない世界だが、以前とは異なる部分もある。人々が因果律に導かれ、操られることがなくなったのだ。
イシドロとシールケ、ファルネーゼとセルピコあたりは成長した姿で、その世界を力強く生きている。最後の数ページはキャスカのパート。子どもと幸せそうに暮らしている。そこにガッツの姿はない。しかし、キャスカがふと丘の上を見上げると、その頂上の地面には大きな剣が刺さっていた。
それは剣と言うにはあまりにも大きすぎた。
大きく、ぶ厚く、重く、そして 大雑把すぎた。
それは正に鉄塊だった。
弁解
「グリフィスを捧げる」という展開は我ながら無茶かなぁと思う。しかし、ガッツが狂戦士の鎧でボロボロになること、ベヘリットによるガッツのための蝕が起こること、しかし仲間たちを「捧げない」ことは、自分にとっては確定事項なのである。
しかし、仲間たちを捧げないのであれば、ガッツは瀕死のままだ。それではラストバトルが成立しない。
これら条件から、ガッツは仲間たち以外の誰かを捧げて使途になる必要があると考えた。他に誰が・・・他に誰か、ガッツとの間に特別な感情を抱きあっている存在がいるだろうか。ハッ・・・
妄想はここまでにして、三浦先生のご冥福をお祈りします。
2022/1/19追記
41巻を読んだ。この先が読めないなんて。
月下の少年は、満月の日にグリフィスが見せる姿だった。じゃあガッツやキャスカになついていたのは、グリフィスの演技だったのかというと、それも違う。月下の少年は、ガッツとキャスカの子どもでもあるのだ。
少しややこしいので整理しよう。
①ガッツとキャスカは交わり、キャスカは妊娠する。
②ゴッドハンドになったばかりのグリフィスにキャスカはレイプされ、胎内の子どもに魔が宿る。
③断罪の塔で蝕が模された日、その子供を素材としてグリフィスが受肉する。
というわけで、その後ガッツたちの世界で光の鷹を演じている存在は、確かにグリフィスでもあるのだが、元々はガッツとキャスカの子どもなのだ。
それが、満月の夜だけは、グリフィスの影響が消えて、本来のあるべき姿(つまりガッツとキャスカの子)に戻っていたということだろう。
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自分の妄想通りに物語が進んだなら、グリフィスを捧げたあと、元の姿に戻った子どもが残るのだろう。グリフィスが憑依している状態が終わり、本来の姿に戻るという感じだ。少年はガッツとキャスカの子どもというだけでなく、グリフィスの痕跡を感じさせる存在にもなるわけだ。
物語が最終的に到達するのは、因果律の支配から抜け出した世界だ。しかし、そこにグリフィスはいない。ハッピーエンドに少しケチがついているかもしれない。そんな世界に、「ガッツとキャスカの子であり、かつてはグリフィスだった少年」が残るというのは、美しい希望の残し方なのではないかと思った。
※ 理性では「復讐より優先するものがある」と思っていても、それでもガッツの復讐心を焚きつけるものがある。狂戦士の鎧だ。鎧はガッツに力を与える代わりに激情に身をゆだねるよう誘惑する。
しかし、それを抑える役割がシールケに与えられている。やはり、ガッツが復讐に身をゆだねる方向では、結末に向かわないだろう。