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読書メモ『教養の書』

戸田山和久の『教養の書』を読み終えた。先日読み終わった『思考の教室』と重複する内容もあるが、「両方を読めてよかった」という思いが強い。本書の内容をたどりつつ、個人的に重視したいポイントをメモしていきたい。

序論:大学の意義論

本書は主として、これから大学で学んでいこうという若者に向けて書かれたものだ。序論では大学教育の意義論が扱われる。大学という機関が若者を教育し、社会に送り出す、その意義は何だろうか。

大学の学びと言えば、以下のような言説に覚えはないだろうか。

「大学での学びは高校までの学びとは違う。高校までは解決済みの問題について概略を勉強してきた。しかし大学では未知の内容に取り組むための学びを行う。」

これは「大学は研究者を養成する機関である」という観点からは正論である。しかし、専門性を十分に習得するには4年間ではとても足りない。修士課程や博士課程まで進まないと、専門は十分には習得できないのが現実だ。

では、学部の4年間を一生懸命に学んで卒業していく学生たちは「専門家のなり損ない」に過ぎないのだろうか?

大学の4年間の教育は、「専門家育成をチョットだけ」ではないそれ自体完結した目的をもつべきだ。そうでないと学生が気の毒じゃないだろうか。その目的こそ「教養の涵養」ではないかと思う。

こうして、第1章の「教養とは何か」という重要テーマへとつなげていくのである。本書は「教養という言葉の本質をとらえた書」として扱われがちだが、その土台には学部教育の在り方論が存在する。これは、個人的には重要なポイントだった。

さて、序論の後は3部構成で、以下のような流れになっている。

第1部:「教養とは何か」という定義に迫る
第2部:教養に向かう道のりを困難にする諸要素について
第3部:困難さを乗り越え、教養に向かっていく具体的な手段の提示

第2部と第3部は『思考の教室』と重なりあう部分が多い。今回は特に第1部に力点を置いて紹介したい。

第1部:教養の本質に迫る

何と言っても、面白いのは第1部だろう。「教養とは何か」というテーマについて、文献を参照しながらじっくりと迫っていく。

まずは教養の存在意義に気づかせるため、「人権」について考えさせる。

たとえば、「人権」という概念を考えてみよう。キミは自分の人生にそれほど理不尽なことは起こらないはずだと思って暮らしているだろう。たとえば、理由もないのに牢獄に閉じ込められるとか、勝手に臓器を抜きとられて売り飛ばされるとか、自分の家の周りで「日本から出て行け」と連呼されるとか。こういうことは起きそうにないと思うだろう。そして、もし万が一そのような目に遭わされたら、裁判にでもなんでも訴えて戦うことができると思っている。何よりも、「自分はそんな目に遭ういわれはない」と思うことができる。これらはすべて、「人権」という概念があるからだ。そして、キミがその概念を知っているからだ。この概念はキミの幸せな生存を可能にしてくれている。

もしもロックたちが人権概念を基礎づけていなかったら、自分たちは人権という発想が存在しない世界に生きているかもしれない。あるいは人権概念を受け継ぎ、次の世代に継承するリレーがどこかで途切れていたなら、自分たちは人権という概念を忘れてしまった世界で生きているのかもしれないのだ。恐ろしい。

ということで、大学が若者に教養を習得させようとする意義は以下のように説明される。

キミが大学に行くことの人類にとっての意味は、キミにこうした知的遺産の継承の担い手(リレー走者)になってもらうことだ。このような人々がいないと、人類の幸福な生存は難しくなる。

さて、そのうえで、教養とは何かの定義に迫っていくことになるのだが、そのプロセスがとても面白い。教養について論じた書籍を土台としつつ、映画やひょっこりひょうたん島のエピソードなどで肉付けしながら、「教養」を構成する要素を一つ一つ指摘し、肉付けしていくのだ。ここで引用される映画のエピソードはとても面白い。『華氏451』は見てみたくなったし、『トゥルーマンショー』を見返したくなった。

さて、著者はじっくりと論じた末に教養の定義にたどりつく(※1)。ここではその主要な要素を以下に整理しよう。

ネットワーク化された知識:トリビア的・暗記的な知識ではなく、大きな座標系に位置付けられ、互いに関連付けられた豊かな知識(※2)
闊達さ:自らの知識を絶対視せず、必要があれば自分の意見を変えることをいとわない姿勢を持つこと
市民的器量:社会の担い手であることを自覚し、公共圏における議論を通じて、未来へ向けて社会を改善し存続させようとしていること
自己形成の姿勢:上記のような教養を持つ存在になるべく、自らを律し高めていこうとしていること

全体的にとても納得できるのだが、個人的には「市民的器量」が含まれていることに注目したい。個人の楽しみとして学び、見識を広げ続けていくだけでは、教養人としては不足しているのだ。

このように教養を定義し、大学が責任をもってその習得を担おうとするなら、社会はもっとマシな場所になるだろうなと感じる。そして、企業社会にとって(短期的視座で)都合のいい人材を育てるよう要求されている現状を思い出し、暗澹たる気持ちになるのである。

自分自身を振り返って、「市民」としてのふるまいが十分だったかも考えさせられる。もちろん、素朴にいい人であろうとはしている。しかし、社会問題に対しては変に諦観して距離を置いているような部分もあり、反省させられる。自分の仕事の良きプロフェッショナルであればいいだろうか。

第2部:教養に向かうことの困難さ

教養ある人間へと向かっていくには、様々な困難が待ち受けている。第2部では、その困難について一つ一つ説明していく。

①これまでの自分が無知だったことを受け入れることの苦痛
②友人たちが、俺達を置いていくなよという圧をかけてくる「友だち地獄
③「私の言うとおりにしていればいいんだ」というパターナリズム
④フランシス・ベーコンのイドラ(idola幻影:虚構の意味)

①~③については、千葉雅也の『勉強の哲学』でも言われていたような気がする。学ぼうとするなら、一度孤独になることを強いられるのだ。

また、④のイドラについては、さらに「種族のイドラ」「洞窟のイドラ」「市場のイドラ」「劇場のイドラ」に分けて解説がなされる。このあたり、『思考の教室』で扱われていた認知バイアスの話ともつながってくるが、本書の方が詳細である。

このように、「教養など身につけなくてもよい」とする声を振り切り、そして人間という生物が持つ論理的思考の難しさを乗り越え、教養に向かっていく必要があるのだ。

第3部:教養に向かっていくための具体的手段

第2部の内容をうけ、第3部では着実に教養に向かっていくための手段を多角的に提示する。これについては、今回の記事では割愛したい。『思考の教室』の方が詳細で、具体例も豊富だったからだ。

そのうえで、インターネットリテラシーを扱った章は、著者の大学での教育内容も関連づいて語られており、なかなか面白かった。

・wikipediaの引用はけしからんと一般に言われるが、出典の明記を重視する姿勢などから玉石混交のweb記事よりも良質と考えていいのでは。

・amazonレビューは酷いものも多いが、評価点の分布にも情報性がある。また、レビューそのものを見て「どういう人がどういう評価をする傾向にあるのか」といった点までくみ取ると見えてくるものもある。さらに、お気に入りのレビュワーを見つければ、良著との出会いも広がる。

など、学生のリテラシーを育むための指導内容として興味深かった。

また、第3部の終盤では「大学という環境の利用法と心構え」といった内容が扱われる。このあたりもぜひ、大学1年生に読んでもらいたいと思える内容だった。

まとめ

本書は、大学生にとって力強い指針を示す良著だろう。これに適切なタイミングで出会えた若者は幸運である。

一方、個人的には大学教育への問題提起や提案としても興味深く読むことができた。もともと教養部の教員出身である著者は、教養部の廃止後に「自分たちが壊してしまったものは何なのか」を考えることになったという。そんな著者が濃密な思いをぶつけた一冊。本書はそのように読むことも許されている。





※1 教養とは何か、本書における定義は下記の通り。

【定義】われわれにとっての教養とは、「社会の担い手であることを自覚し、公共圏における議論を通じて、未来へ向けて社会を改善し存続させようとする存在」であるために必要な素養・能力(市民的器量)であり、また、己に「規矩」を課すことによってそうした素養・能力を持つ人格へと自己形成するための過程も意味する。
ここでの素養・能力には、以下のものが含まれる。①大きな座標系に位置づけられ、互いに関連付けられた豊かな知識。さりとて既存の知識を絶対視はしない健全な懐疑。②より大きな価値基準に照らして自己を相対化し、必要があれば自分の意見を変えることを厭わない闊達さ。公共圏と私生活圏のバランスをとる柔軟性。③答えの見つからない状態に対する耐性。見通しのきかない中でも、少しでもよい方向に社会を変化させることができると信じ、その方向の向かって①②を用いて努力し続けるしたたかな楽天性とコミットメント。

※2 トリビア的・暗記的な知識への批判として、巻末の注でセネカの『生の短さについて』からの引用がある。面白いのでメモしておく。

当時のローマの人々のトリビア知識収集熱について痛烈に皮肉っている箇所があった。引用しておくね。
「今言った同じ人物はこんな話もしていた、メッテルスは、シキリアでカルターゴー人に勝利したあと、分捕った百二十頭もの象を自分の乗る車の前に引き連れて凱旋行進したローマ人で唯一の人である、あるいは、古人のあいだでは属州で領土を獲得したときにのみ拡張される慣わしであったぽーめーりうむを拡張したローマ人で最後の人はスッラである、と。その類の知識が、誰の迷妄を正し、誰の過誤を減らすというのであろう。誰の欲望を抑えるというのであろう。誰をより勇敢な人間にし、誰をより正しい人間にし、誰をより自由な人間にするというのであろう。」

2021/04/30追記

教養の定義について、少し補足。知識について、「量が必要」「知識同士が相互にネットワークを結ぶような生きた知識であることが必要」という程度はすぐに消化できたが、「大きな座標系に位置付けられ」という戸田山先生の言葉は、よくわかるようで、自分自身の言葉に置き換えづらかった。

最近、自分のものになったなという感触を得たので書いてみたい。

教養を定義するうえで「知識」を考えるとき、「何についての知識なのか」という要素も考慮する必要があるのだろう。知識量は必要条件であるが十分条件ではない。例えば私はK-1、プライド全盛期の頃の格闘家について、写真を見ただけで名前や国籍、ファイトスタイルまで解説できる自信があるが、その知識は教養の構成要素として必須だろうか。

教養のみなされる知識にはジャンルの制限があるはずだ。文学や歴史、芸術といったものがわかりやすいだろう。では、これらに通底するような特徴はあるだろうか。

思うに、「人間として生きる上で普遍的な悩みや問い」というものが存在し、それに対して真摯に考えることが重要なのだろう。それも、独りよがりに考えるのではなく、知のリレーを参照することが必要だ。「正義とは何か、生きる意味とは、望ましい社会の在り方とは…」といった普遍的な問いに対し、知のリレーを参照しながら深く考えつづけた人、考えつつけている人。それこそが教養人の定義なのではないだろうか。

これは重要なパーツなので、「大きな座標系に位置付けられた知識」という直観的でない説明は、もったいないなぁと思った次第。

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