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三島由紀夫『金閣寺』

三島由紀夫の『金閣寺』冒頭に印象的なエピソードがある。
主人公溝口の通う中学に、海軍機関学校に進学した先輩が遊びにやって来る。戦前の日本ではかなりのエリート、少なくともエリートの卵だと言ってよいだろう。彼は石段に腰かけ、後輩らは彼の話に聞き惚れる。
しかし、主人公の溝口だけは二メートルほど離れたベンチに座っている。吃音症を持つ彼は学友たちに相手にされていないからだ。
「英雄」然とした先輩は、一人威風になびかぬように見える溝口を気にして、彼に声をかける。
生徒の一人が、あいつは吃りだからと、その吃る様を真似しながら言い、生徒たちは一斉に笑う。
溝口にとって、その嘲笑は眩しい。それはまるで光のはじける葉叢(はむら)のようである。
先輩は「貴様も海機へ入らんか。吃りなんか、一日で叩き直してやるぞ」と英雄らしい物言いで余裕を見せる。

溝口は現実と自分の間には常に距離があるという。誰にも相手にされない彼は、いつも、空想の中で、自分をさげすむ教師や学友を処刑したり、大芸術家になる自分を想像したりしている。

常に空想に耽り、うまく人とコミュニケート出来ず、決して内面を理解してもらえない溝口。そこには三島自身が投影されている筈だと私は思う。
海軍機関学校の「英雄」は、ボディビルを始め、後にグラビアや映画で世間を賑わす、もう一つの自分であろう。それは、溝口が夢想の中で憧れたり、処刑したりしている存在でもある。
『金閣寺』以前も、その後も、三島の活躍は華々しいが、それでも、深夜一人孤独に執筆(要するに夢想である)を続ける作家としての三島と、派手なパフォーマンスで世間を騒がす三島との間には、溝口と、生徒たちに持て囃される「英雄」のような距離がある。そして、本来的に三島に近いのは、家族が寝静まった深夜に机上の明りの中で朝まで執筆に勤しむ三島の方であろう。だから彼は作家になったのだ。

三島は『鏡子の家』の酷評や、『宴のあと』の裁判など、様々な世間の不理解に直面することになる。三島は、さぞかし、それらを理不尽に感じたことだろう。期待したような評価を得られないという思いは、恐らく、全てのクリエーターが感じるもので珍しくはないが、その感情は、人をより内面に向かわせるものではあると思う。 

傷ついた三島は暗い書斎(=溝口の内面)に帰ってゆく。

深夜の暗い書斎。そこには、世間の賞讃も届かない代わり、非難も届かない。そこはとても居心地がよい。そして、そこから見る世間の景色は「光のはじける葉叢のよう」なものであろう。世間は華やかである。非難も賞賛も含めて。三島と世間には常に一定の距離がある。石段とベンチの間は、たった二メートルの距離なのに、溝口の本当の声は決して級友たちには届かない。誰も本当の三島を知らない。

2024.7.18 一部加筆しました。

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