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企業の情報発信に"意味"をもたせまくっても個人には"無意味"

ようこそ、お越しくださいました。

はじめましての方から頻繁に起こしいただく方まで、ようこそ。
どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

このnoteでは、特に読む必要がないと感じられることかもしれないけれど、ぼくがだれかと対面して話したい”雑談”を文字化するものなので、そんな雑談にお付き合いくださる方は、ぜひ読み進めてください。

▶︎ 発信することに正当性を見出しすぎない

情報発信が誰にでもできる時代になってしまい、総メディア時代へ突入してから10年以上経過していますが、どうでもいい情報が出まくっている傍らでキラリと光るような情報に出会う機会もあります。

文章だけでなく画像や動画など、あらゆる情報が生成されてネットの海に投げ込まれていることもあり、日々、何かしらの情報は埋まってしまいますが、何かの機会に掘り起こされて脚光を浴びることもあったり。

日常的に情報に触れるにも取捨選択をしなければならない状況に追いやられたぼくたちは、どうやって発信していったらいいんでしょうね。そんなことを毎日考えていたりしますが、ぼくは毎日、海に石を投げ込むかのごとく雑文をネットに投げ込んでいます。

自分の想定を上回って閲覧されることもあれば、力を込めた割には何の反応ももらえないことに落胆をしたことすらあるものの、いまでは発信をすること自体に意義を見出しているというよりも、趣味の範囲で自己生活ルーティン化させた中でどう生み出すのかっていうゲームに参加してる気分

そもそも発信することに正当性を見出そうとし過ぎなんじゃないのって話をダラダラとし始めてみます。

▷ 企業)マス向けの”ビシッとしすぎる”発信は受け取られない

企業の情報発信については、発信する媒体がなかった頃のいわゆるマスメディアに向けて広告を出稿することや取材を通して何かしらの企業メッセージを発信することなど、受動的で制御の利かない情報発信が主流でした

そもそもそれを情報発信と呼べるのかどうかは怪しいものですが、当時の意識が強いからか、企業でも個人でも「ビシッと筋の通ったコンテンツ」が生み出せない限りは情報を発信すべきではないと思われているように感じます。
果たして本当にそうでしょうか。

マスに向けた発信となると、自分たちの出したい情報をどう扱ってもらうのか尼焦点を当ててしまいがちで、「お客さん(個人・法人)にどう見られたいのか」や「いかにして自分たちが社会的に意義のある存在だと認識してもらうのか」みたいな使命感をビシビシ感じたりします。

それ、誰が触れたいと思うのでしょうか。

企業然とした情報を発信しなければならないこともあるでしょうが、それって誰が読みたいのかというと、内部の人たちが外部の利害関係者に向けて”いいカッコ”してるだけなケースが多いのではないでしょうか。

ぼくをはじめ、これを読んでいる人も含めると、多くの読み手や受け手は情報ド素人です。企業然としたビシッと決めにかかるプレゼンを期待してなんかいません。期待をしているのは自分たちだけであるという点を自覚すべきではないでしょうか。

▷ 個人)人が読みたいのはカッコいい”意味”ばかりの情報ではなく

毎日何かしらの情報を発信しだしたからといって、糸井重里さんのように「インターネット的」な情報発信を心がけられる人に即座になれるのかと言ったらなれません。

ぼくだって、こんな雑文での雑談を日々載せてはいますが、糸井重里さんのようなビシビシと刺さるような文章を書けるのかといえばまったく書けません。書ける気がしません。

それでも、こんな風に海に石を投げ続けているからこそ、たまに掘り起こしてもらえたり、誰かに気づいて貰える機会も増えていることを日々実感しています。また、それを評価してくれる人にも出会いやすくなりました。

企業の発信同様、人の感情が見えないテキストや画像、動画に魅力を感じる人は多くないでしょう。無機質なビルは壁などで仕切ることで境界線を設け、そこに配されるグループごとに意味を与えてくれるかもしれませんが、余白はなくなります。

その意味に囲まれた状態に絶望しはじめたとき、ついつい海や山や平原などの”意味のない”ところに行きたくなるし、そういった場所へ赴くことで何かが払拭される感情を抱くことが可能になったりするものではないでしょうか。

日常的に意味に囲まれているのに、人に触れようとした際にも意味を全面に出されると息苦しくなるものです。

せっかく旧知の友人にあったのにも関わらず、意味のある仕事の話をバシバシしてくるような意味ばかりの人には会いたくないのと一緒で、ぼくたちは一見すると意味がないように思える感情的な揺らぎみたいなものを見いだせないと魅力とやらを感じないのではないでしょうか。

企業発信は、自分たちの出したい、伝えたい内容を、ビシッと筋を通しながら関係各所に配慮し、たくさんの意味が込められた情報は受けてからしたら何の意味もないことがほとんどだったりしますが個人でも同様です。

意味ばかり求めた情報を出すことは結果的に何の魅力も出せないものになる可能性が存分にあるし、そもそも意味のあるものを自分が出せると思い込んでいる思考自体を疑うべきです。

▷ 個人でも企業でも発信が見えないと存在が不気味になる

いま、インターネットによる恩恵を受けないことはないでしょう。少なくとも、この文章を読んでくれている人たちはインターネットに接続できる状況にあるわけですし、他のツールやサービスを利用するにもインターネット接続自体が前提になっているものばかりな世界線になってきました。

今後、電子機器がいくら発達したところで記憶媒体として石に勝るものは出てこないだろうともいわれていますが、わざわざ石に書き残してまで後世に伝えたいことなんてありません。おそらく、多くの人は同様ではないでしょうか。

歴史に名を残すような企業を生み出すのだと息巻いていたとしても、Appleのような時価総額が世界一の企業だって50年後にはまったく異なる企業が時価総額一位を獲得している可能性は存分に高いわけです。

何がいいたいのかというと、そんなに盛り盛りにした意味ばかりの情報を出してばかりいることは、人生においてそう大きな役割を持っていないってことを自覚したほうがいいのではないか...なんてことだったりします。

また、個人でも企業でも”人”っぽさがないと不気味に見えてくるものです。たしかに存在しているのはわかるのに、何もいわない人って同じ空間にいて不気味じゃないですか。

最近ではFacebookで明らかにそういう人が増えてきている印象ですが、あれも意味に囲まれている人が多いからなのかもしれません。

何でもかんでも発信すればいいってものでもないと思うかもしれませんが、意味ばかりの情報では誰も寄り付かなくなるので気をつけてください。大半の人は情報素人であり、情報難民であり、意味の理解などできないのです。

少なくとも、ぼくはこんなnoteを日常的に書いているものの、意味を求めて書く機会は決して多くありません。意味を内包しようとすると堅苦しく、無味乾燥なものになってしまいがちだからです。

そんなわけで、これからも無意味な発信を繰り返して生きたいと思います。もし、発信に悩んでる人がいるのなら、一緒に考えましょう。

"意味の薄い情報発信"について。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

バスケでプロになるはずが、気づけば腹痛でトイレにこもる会社員になっていた
こうやって意味の薄いnoteを書くことで会社のことを応援したくなるものじゃないですか。少なくとも平地さんのお腹が心配になることから感情が揺さぶられるため、一気に人っぽさがにじみ出ています。こういうものですよね、読みたくなるのって。

36歳で印刷会社の社長になった僕が、減り続ける売上をなんとか立て直した話
意味を内包しようとすればするほどに、組織外の人からすると意味が無意味になるんですよね。これはもうなんていうか情報発信における矛盾みたいなもので、意味をもたせすぎると誰も近寄ってきてくれなくなるものだったりします。

「意味の時代」から、「わかんないの時代」へ。
意味を出していた頃はマスメディアが情報を取捨選択していた時代でしたが、いまは情報の民主化によって個人にもたらされました。そうなってくると企業における意味は個人にとって無意味になっていくのは必然です。多くの人たちには関係のないことだから。早くここに気づくべきだよね、とか思ってます。

▷ えんどうのTwitterアカウント

僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。

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