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36歳で印刷会社の社長になった僕が、減り続ける売上をなんとか立て直した話

僕が35歳のとき、父親がガンになりました。

父は印刷会社を創業し、以来ずっと社長をしていました。しかし、ガンのこともあったのでしょう。急に僕を呼び出して「おまえ、来年から社長な」と告げたのです。

ちなみに治療はうまくいき今はピンピンしていますが、病気のことがなかったら、このタイミングで社長になることはなかったかもしれません。

僕は36歳で、印刷会社の二代目社長になりました。

このnoteは、印刷会社の息子として生まれ、36歳で継承し、業界が下降トレンドのなか、なんとか生き延びる道を探り出した話です。

同じような後継ぎの経営者や、いわゆる斜陽産業で踏ん張っているみなさんに届けばいいなと願いながら書いてみます。

経営方針がなくてもうまくいっていた

父は何ひとつ言語化しない経営者でした。

経営方針も、経営理念も、一切言語化しない。年度が変わっても「今期の戦略はこうです」などと示されたりはしません。

あったのは「売上の目標」だけでした。

そしてそれは「絶対に達成できないような数字」でした。とりあえず目標は高めに設定する、というのが伝統としてあったのです。

高すぎる目標なので達成できなくても特に問題ありませんが、前年より売上が落ちると営業会議で厳しく責められる。そんな会社でした。

今から考えると売上目標を示すだけで会社が回っていたというのは不思議に思えます。ただ、昔はそれでよかったのでしょう。前年比でプラスになるようとにかくがんばる。経営者はつねに高い目標を示しておけば、自然と売上は伸びていったのです。

いわばこの「ベクトルの方向」ではなく「ベクトルの長さ」だけを示すやり方がうまくいかなくなり始めたころ、僕は入社しました。

2003年、27歳でした。

2000年代、印刷産業は下降トレンドに転じる

僕が家業の印刷会社に入社した2003年はインターネットも普及しつつありましたが、印刷産業への打撃はほぼありませんでした。

印刷産業のピークは、だいたい2000年くらいです。

正確にいうと、1998、1999年あたりは市場規模が9兆円ほどありました。そこから20年かけてだんだん縮小していって、今はだいたい5兆円くらい、というのが概況です。

2003年の時点ではまだ普通に仕事がありました。

「インターネットが出てきたから、印刷はなかなか厳しくなるかもね〜」なんて言いながら、その当時の経営者たちはそこまで深刻に考えていなかったように思います。

しかし2004〜05年以降、業界全体は明確な下降トレンドに入っていきます。

一方で僕は平社員から、課長、部長、専務……と役職が上がっていく。責任が重くなっていきました。

下降トレンドのなか、売上を伸ばし続けなければいけないというのは、けっこう大変なことでした。

メインのお客さんの売上が突然消失する

入社3年目に大ピンチが訪れます。

当時のうちのメインのお客さんは、ある家電量販店でした。そこのチラシを毎月大量に刷っていた。そこの仕事の割合はすごく大きくて、売上の半分以上だった時代もあります。

しかし、僕が入社して3年目に突然その仕事がなくなったのです。メインのクライアントがいなくなってしまった。

ちなみに、その家電量販店の仕事をするためだけの子会社があったのですが、その会社の売上は「ゼロ」になりました。まさに「翌月から仕事がない」という状態です。

当時その子会社には社員が30人ほどいましたが、リストラせざるをえませんでした。翌月から社員は3人になりました。

そのとき僕はまだ平社員だったので、経営のことはよくわかりませんでした。ただ、社長である父や幹部がゴタゴタしているのは見えていた。いちばん大きな仕事がなくなってしまうというのは、会社全体としてもインパクトは大きいものでした。

メインクライアント消失のショックで、業績はガクンと落ちました。

「なんでもできます」では生き残れない

突然、家電量販店の仕事がなくなって、会社は大きく変わらないといけませんでした。このままでは会社はなくなってしまう。

僕が営業の仕事をやりながら感じていたのは、会社のビジネスモデルの限界、印刷というビジネスの限界でした。「今のやり方を続けていても、これ以上は大きくならないだろうな……」と現場を回りながら思っていたのです。

下降トレンドが続いても、上の世代はギリギリなんとかなるかもしれません。でも、僕らの世代には長い未来があります。ここでなんとかしなければ先はない。

どうすれば生き残ることができるのだろうか――?

自分なりに考えた結果、出てきたキーワードは「専門特化」でした。

昔の印刷会社は「なんでもできます」と言うのがあたりまえでした。僕自身、お客さんに「おたくって、なんでもできるよね?」と言われて「なんでもやりますよ。ありがとうございます!」と答えていました。

しかし内心は「なんでもできる」ことにコンプレックスがあったのです。「なんでもできます」と答えることは、正直イヤでした。

なんでもできるのは素晴らしいことではあります。

お客さんの要望になるべく応えて、名刺でもパンフレットでもチラシでもなんでもつくる。それもひとつの正しいビジネスモデルなのでしょう。

しかし「なんでもできる」というのは裏返せば「強みがない」ということでもあります。

インターネットの普及で印刷産業は下降トレンド。印刷は「供給過多」の状態でした。

そんななか、社員が胸を張って「うちはこれが強いんです」と言えるなにかをつくりたいと思っていました。というよりも、なにかしら「専門特化」しないと勝ち残れない。そう感じていました。

そこで僕は専務になると、「営業戦略部」をつくりました。社員を2人新たに入れて、新規事業・新規開拓のための部署をつくったのです。

これは実は異例のことでした。

うちは創業以来、「営業の力で売上を伸ばし続ける」ことで成長してきた会社です。「新規事業」などというワードが出てきたことすらありませんでした。そんななか社長の息子が「新規事業をやる」と言い始めたわけです。

なかには眉をひそめる人もいました。父も反対こそしませんでしたが、明らかに賛成の顔ではありませんでした。

ただ、社内の顔色を伺っている場合ではありません。このままでは、最悪会社がなくなってしまう……。危機感を募らせた僕は、その日から会社の生き残りをかけて新たな道を模索し始めました。

なんとか定期刊行物の仕事がほしい

家電量販店の仕事がなくなって当時いちばんしんどかったのは「定期刊行物がなくなったこと」でした。

印刷はシンプルに言えば「装置産業」。機械が回れば回り続けるほど儲かる仕組みです。

印刷の受注単価が下がってしまうのは、定期的に回る仕事がなくて、その穴を埋めないといけなくなったときです。機械が動かない時間が長いほど損をすることになる。だから安い値段であっても受注してこないといけなくなるわけです。

うまくいっている印刷会社は、たいていなにかしら定期刊行物の案件を持っています。専門書の出版社と取引があるとか、大手出版社と取引があるとか、あとは医療メーカーの学術的な冊子の取引があるとか、旅行のパンフレットの案件などです。

ただそういうマーケットは、当然ながら歴史ある印刷会社にギュッと握られてしまっています。

うちの会社は印刷業界のなかでは若いほうでした。

父が20代のときに立ち上げた会社なので今年で53年目ですが、印刷会社の中では若い。後発だったため、安定的ないいお客さんはあまり残っていなかったのです。

しかもうちの印刷機はそんなに大型の機械でもありません。印刷のサイズ、ページ数、冊数によって、刷れないものもあります。

たとえば分厚いハードカバーの単行本は、うちの印刷機械だと刷れません。正確には刷れなくはないのですが、効率が悪いのです。仮に受注してきたら外にお願いするかたちになります。

新規事業を考えるにあたっては、そのあたりの条件をクリアする必要がありました。

・専門特化できる
・定期刊行物である
・うちの機械でも効率よく刷れる

あと、会社には優秀なデザイナーも残ってくれていたので、彼ら彼女らが活躍できる仕事、という条件もありました。

「……社内報がいいんじゃないか?」

ああでもないこうでもないと考えているとき、ふと「社内報がいいんじゃないか」とひらめきました。

社内報なら、さほど分厚くもないし、大きい会社の社内報を受注すれば毎月大量に印刷することができる。「印刷機を安定的に回せる」「専門特化できる」、それが両方かなうのが社内報のビジネスなのではないか――。

いまでこそ「インナーブランディング」の重要性を認識して、信念をもってやっている社内報事業ですが、出発点は「なんとかしなきゃいけない」という思いのほうが正直強くありました。

「会社の状況がまずい。売上しか追いかけていないし、いろいろ変えていかなきゃいけない。でも、親父がいる限り会社は変わらないだろう……」

そんななか苦肉の策として考えついたのが社内報だったというわけです。

僕は早速「社内報で新規開拓をやります」とぶち上げました。立ち上げた営業戦略部は、その日から社内報の新規開拓がメインの仕事になりました。

「社内報で行こう!」

そう決めたのはよかったのですが、、、このあとあらゆる困難が押し寄せることになるのです。

最初は社内との戦いだった

「社内報をやる」と宣言しても、社内の反応はよくありませんでした。

実は「社内報」というのはデザイナーに人気がありません。「雑誌をやりたいです」という人はいても「社内報をやりたいです」というデザイナーは、なかなかいない。

「社内報をやる」と聞いて辞めていく人もいましたし、あからさまに嫌な顔をする人もいました。

彼ら彼女らの気持ちもわからなくはありません。社内報なんて、読まれているのかどうかもわからないし、どこに置いてあるのかもわからない。友人に「いま仕事何やってるの?」と聞かれたときに「社内報やってるんだよね」なんて言いたくないというデザイナーもいました。

社内報なんてダサい。最初はそんな社内のレッテル貼りとの戦いでした。

社内報は「オワコン」ではない

ただ僕としては社内報について考えれば考えるほど、その可能性に魅了されていきました。

先ほど述べたように「ビジネスモデル的な側面」もそうですが、やはり会社で社内報が果たす役割は大きいことに気づいたのです。

当時は「3年で新卒の3割が辞める」と言われるような時代でした。

問題は「ミスマッチ」です。採用のときは外側に向けてキラキラしたメッセージを発信する。なのに、いざ入社してみると社内ではまったく違う言葉が使われている。そこに新入社員は違和感を感じて辞めてしまうのです。

僕は、ここを社内報が解決できると考えました。

社内報の質を上げ、きちんと言葉を整理することで、社内外に一本筋の通ったメッセージを伝えることができるはずだ。

社内報=ダサい、つまんない、読まれない、オワコン
ではなく、
社内報=会社を元気にする強力な武器

へとその役割を変えていくことで、可能性は無限大にあると感じていました。

仕事はぜんぜん来なかった

ただ、社外からの反応もまったくと言っていいほどありませんでした。

威勢よく「社内報だ!」とぶちあげたものの、新規案件なんてぜんぜん取れない。当時のぼくはマーケティングにも詳しくなく、社内報事業はなかなかカタチになっていきませんでした。

そんなとき、たまたま「採用ブランディング」の仕事の話が来ました。ある広告代理店からの仕事でした。

ただうちの会社は、企業理念もなにも言語化していなかったのですが、唯一明確だったのは「下請け仕事はしない」ということでした。

よってこれまでは代理店からの仕事も受けていませんでしたし、大手の印刷会社の仕事を請け負うこともありませんでした。「自分たちの機械は自分たちの営業力で回す」というのが、脈々と受け継がれていたポリシーでした。

それでも「できますか?」と代理店の人に聞かれたとき、僕は「やります」と答えました。

それには理由がありました。

社内報の事業は鳴かず飛ばずだったのですが、その理由のひとつに「大手の制作実績がない」ことがあるのではないかと思っていたからです。よって代理店からの仕事ではあるけれど「実績を作るチャンスだ」と思ったのです。

これまでは自社で営業をしていたので「直需」のお客さんだけでした。それはそれでよかったのですが、ナショナルクライアントの実績がやはり少なかった。そこで代理店の仕事をすれば、大手の案件をとれる可能性が高いと踏んだのです。

いわゆる「下請け仕事」をするのは、本意ではありませんでした。

しかし、どのみち自前で受注しようにもうまくいかない。そこで「3年間だけ限定でやってみよう」と決めたのです。

それから、その広告代理店の名刺を持ってお客さんのところに通う日々が始まりました。

企業の課題を聞き、競合の会社を聞き、ターゲットの学生を聞く。「求める人材像」を聞いて広報戦略を立てる。そして、採用のメインコピー、クリエイティブ、企画までぜんぶ考え、それを紙、ウェブ、動画に落とし込んでいきました。

一心不乱に働いた3年間

振り返ってみると、たいへんな3年間でした。

会社としてもいちばんしんどかった時期です。

そのときはまだ、制作ディレクターもライターも社内には1人もいませんでした。いたのはデザイナーだけ。

僕は「クリエイティブディレクター」の肩書きでお客さんのところに行っていました。

肩書きは立派ですが、内情は企画も僕が立てるし、企画書も僕がフィニッシュするし、取材も僕がするし、なんならライティングも動画もウェブもやっていました。

「できない」も「知らない」も言えるような状況ではありませんでした。

ウェブなんて当時はやったこともなかったのですが、とりあえずフリーの人に声をかけてなんとかカタチにしていました。

ライティングもさすがに1人では回りません。といっても、知り合いのライターもいない。そこでライターの求人サイトに「この案件に興味ある人いますか?」と投げ、そこで反応があった人とやり取りしていました。

クライアント企業の最寄り駅の改札でライターと待ち合わせして「はじめまして」とあいさつ。そのまま取材。数日後、原稿をあげてもらう。

そこで原稿がいい感じに仕上がっていないともう泥沼です。取材のやり直しはきかないし、結局自分で徹夜して仕上げるなんてこともありました。1週間に何度か会社で朝日を見ることもありました。

しかも採用の仕事なので、どの会社も時期が重なります。ものすごい数になる。お客さんが銀行だったりすると、一気に何十人という人を取材して原稿にしなければならない。ただただ、めちゃくちゃ働いていた思い出しかありません。

そんなことを一心不乱にやっていると、気づけば3年半が経っていました。

僕は思いました。

「やはり、下請けはリスクだ。仕事が途切れたら息の根を止められてしまう。経営リスクを最小化するためにも、やはり自社事業を軌道に乗せないといけない」と。

代理店の仕事はやめて、自分たちで仕事をとってこよう。

そう思っていろいろ試行錯誤するなかで、ようやく一筋の光が見えました。それが工場の一角で開いた「社内報セミナー」でした。

「社内報セミナー」が大反響

「もう下請けは十分だ。社内報を本格的にやろう」、そう決めた僕は社内報セミナーをやろうと思いたち、いろんな会社にDMを送りました。

「社内報セミナー」と言いながら、コンテンツは特に用意していませんでした。そもそも反応があるかどうかもわからなかったので、とりあえず案内だけ送ってみたのです。

「何月何日にセミナーをやります」と適当に内容を書いて、DMをまきました。2014年のことです。

すると、、、なんとすごく反響がよかったのです。

ほどなくして、「参加」に丸のついた大量のファックスが戻ってきました。ウイーン、ウイーンとファックスが止まらない。会社の一角でやるつもりだったのに、50件ほどの申し込みがきました。「これ以上、増えたら困る」と途中で止めたくらいでした。

セミナーなんてほとんどやったことのなかった僕らにとって「お客さん側からエントリーの注文がくる」ことにビックリしました。

社内報が求められていることが明確にわかったことも収穫でした。

「社内報は社会的にすごく求められている。なのにそういうサービスを提供している人がいない。だから僕らみたいな何の実績もないセミナーにも来てくれるんだ」

ファックスの機械音は僕らにとって希望の音でした。

採用ブランディングのノウハウを社内報に活かす

さて。問題はコンテンツがなかったことでした。

セミナーを開催するのはいいけど、コンテンツがない。当日は50社ほどが参加します。僕らはそこから真剣に考えました。

ただあらためて考えると、コンテンツをつくること自体はそんなに難しくないことに気づきました。基本的な考え方は下請けで実績を積んできた「採用ブランディング」と同じだったからです。

採用ブランディングは「誰に、何を、届けたいのか」が重要です。欲しいターゲットの学生を分析して、相手が欲しい情報を、他社と差のある状態で届ける。そうすることで「志望度」は上がっていきます。

社内報も同じです。

ただ漫然とつくるのではなく「誰に、何を、届けたいのか」を明確にすること。どういう社員に届けたいかを明確にし、社員が欲しい情報を、わかりやすくおもしろくして届ける。

そうすることで見向きもされなかった社内報は蘇ります。

集まる人のなかには「社内報なんてオワコンだ」と思っている人も多いでしょう。しかしそこに「ブランディング」の要素をしっかり入れていくことで会社を元気にする強力な武器になるんですよ、ということをお伝えすればいいのだ、と気づいたわけです。

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↑なんとかできあがった社内報セミナーのプレゼン資料

JALさんとの出会い

うちの会社の最寄り駅は都営新宿線の森下駅です。

セミナー参加者は森下駅を出て、オフィス街でもなんでもないよくわからないところを歩いて、うちの会社に来ることになります。

旧印刷工場がある建物の6階でセミナーをしたのですが、ホールでもなんでもなく「フロアの一画」でした。

社内報のある会社の多くは、有名でそれなりに大きい会社です。有名企業、大企業の広報の方たちが、よくわからない工場のフロアの一角にどんどん来る。みんな「やばいところのセミナーに来ちゃった」と思ったはずです。

そこで僕はセミナーの冒頭で、採用ブランディングの実績をお見せすることにしました。そこでやっとセミナー会場がちょっと落ち着きました。

「これ大丈夫なの?」とざわついているところに「僕らは採用ブランディングで、こういう仕事をやっていました」と実績を示した。そうすることで「まともな会社が発注する会社なんだな」と思ってもらえたはずです。

そのときたまたま来てくださったのが、JALさんでした。

当時は2014年なので、JALの経営が傾いて公的資金が注入されてから3年ほどが経ったころ。そこに稲盛和夫さんが入って、どん底から抜け出したくらいのタイミングです。そのJALさんがセミナーに来てくれた。しかも、奇跡的にうちに発注してくれることになったのです。

聞くと、会社のメッセージを高め、会社の結束力、社内のコミュニケーションを強化しなければいけないと感じているタイミングだったそうです。

「社内向けの情報提供は重要だとわかっていたけれど、社員に伝わらなければ何も始まらない。だから思い切って、わかりやすく伝えられる制作会社にお願いしてみようと思った」と、のちに担当の方が発注の経緯を語ってくださいました。

そこから徐々に仕事は増えていきました。

「実績はあるんですか?」と聞かれたときに「JALさんのお手伝いをしています」と言えるのは営業的にも、すごく助かりました。しかも「一度経営が傾いたところから復活していく」というストーリーも社内報の事例としてはエッジが効いていました。

JALさんの案件がとれたのは、うちの会社にとってエポックメーキングな「事件」でした。

それ以来、社内報の事業は軌道に乗り、今では富士通、NTTデータ、日清オイリオグループ、サントリービバレッジなど100社以上の社内報を制作させていただいています。

社内報事業も今では30人以上の所帯になっています。東京だけでなく、名古屋や大阪にも拠点を構えることもできました。

この記事では、社内報事業を僕の手柄のように語ってしまいましたが、会社がなんとか成り立っているのは、まわりで支えていてくれる社員や関係者のみなさまのおかげです。

この場を借りてお礼を言いたいと思います。本当にありがとうございます。

「この印刷機を回すにはどうすればいいだろう?」

長くなりましたが、最後にこんな話をしたいと思います。

あれは、メインのクライアントが消失して「これからどうしよう」とひとり考えているときのことでした。 

僕の頭の中ではずっと「印刷産業はこれからどうなるのだろう……」「印刷産業を何とかしなければ先はないぞ……」という思いが渦巻いていました。 

もちろん、いいアイデアなど浮かびません。

どう考えてもインターネットの興隆で、印刷産業の下降トレンドは止められない。どうすればいいのかわかりませんでした。

ふと目をやると、そこには一台の印刷機がありました。

僕は思いました。

「この印刷機が回るたびに、会社は儲かっていたんだよな……」と。

そして「印刷産業の流れは止められないかもしれないけれど、この機械さえ再び回すことができれば、また売り上げは伸びていくんじゃないか?」

産業全体の大きな話はひとまず置いておこう。ただ、この機械さえ、また音を立てて動いてくれれば、きっと何か光が見えるはずだ――。 

そう考えたときに、ふと「社内報」というアイデアが生まれたのです。 

社内報に行き着いたのは、印刷産業という抽象的で大きなことを考えたからではありません。目の前にある一台の印刷機を動かそうと思ったことで出てきたアイデアでした。

2021年。厳しい時代は続いています。業界全体・産業全体が傾いて、苦労されている方も多いと思います。

ただ、小さくてもいいから「具体的なこと」「目の前のこと」に集中することで、何かヒントが見えてくることがあるかもしれません。

* 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

僕のような小さな会社の経営者が偉そうなことは言えないのですが、ここまでの経験が何かみなさんのヒントになり、少しでも勇気になったとしたらうれしく思います。

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こちらのnoteでは、会社改革のもうひとつのポイントだった「コストカット」について書いています。

こちらでは、「社内報」に注目した理由について詳しく書いています。


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オープン社内報

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