スポーツが嫌いな人は存在する世界線とブラック企業
枕にかえて
どうも、えんどう @ryosuke_endo です。
ぼくはかれこれスポーツに関わるような仕事を10年ほどやっていた。
いまはまったく持って関係のない業種や職種に関わることの方が多く、2018年から2019年にかけてスポーツビジネスに絡めたイベントを企画・運営していた(#スポみら)ぐらいで、それ以外の関わりはまったくといっていいほどない。
別に嫌いになってしまったわけではない。かといって10年前ほどの熱量を持ってリアルタイム観戦をどうにかこうにか志望したうえで、その欲望を満たすために他の予定を繰り上げ、もしくは前倒しするほどの気概を持ち合わせるほどには至らなくなってしまった。
嫌なことがあったわけではないし、むしろ体育から続く自尊心の獲得に大きく影響を与えてくれたものであったはずのスポーツと距離を置くこととなったのは如何なる理由があるのか。また、元来、スポーツや体育が嫌いだった人たちの気持ちもわかるようになってきている節もある。
その両点から、ファンをつくり出して文化を醸成する役割を担うはずである「日本的スポーツの価値観」における問題や課題点などを模索してみる。
▶︎ 体育の延長ではないが延長感が拭いきれないスポーツ
”スポーツは体育ではない”
多くのスポーツ関係者はこの意見に賛同するだろうし、現状のプロスポーツに関わる人たちはこれを前提認識として就業し、業務としてのスポーツビジネスに勤しむこととなっている。
しかし、だ。
それはスポーツビジネスが好き、ひいてはスポーツが好きな人たちや関連する業務や仕事、作業などに”やりがい”や”生きがい”を得てしまっている人たちの偏った意見であるため、それだけを見ているようでは課題や問題点など見出しようがない。
日本人だけでも1億人以上の人が存在するわけで、その人たちがすべて「スポーツが好き」だと意見することなどあり得ない。無論、体育の授業などを経て体育が嫌いとなり、そのままスポーツ自体が嫌いなままでいる人たちも一定数は存在するはずである。
嫌い、苦手といったネガティブな感情を抱いてしまっている人たちに「スポーツと体育は別物だ」と説いたところで「だからなに」と冷たい態度と発言をされて会話自体が成立しなくなってしまうだろう。
ネガティブな感情を抱いている人たちからすると、延長線上でしか見れなくなっているのは事実だろう。それ以外にスポーツを見る術を知らないのだから仕方がない。もっといえば、スポーツを推してくる人たちは脳筋だと思われているし、「どうせ群れてるんでしょ」ぐらいに考えられもすれば「マウント取ってくるんでしょ」みたいな蔑視をされている(と、ぼくは思っていたりする)。
ポジティブな感情を抱いている人たちは、それほど彼らの自尊心を傷つけてしまっている物事に関わっているのだと自覚すべきだろうが、これはなにもスポーツに限った話ではないだろう。
他の音楽や芸術などの分野でも同様のことが起こっているだろうが、どうもスポーツのようなメジャーで華々しく扱われるものは他にないため同類とは見なされていないのではないか。
ただ、スポーツ自体も構造的な問題でそれらを抱かなければやってられないような状態を長らく継続してきてしまったのだ。
▷ 勝とうとしすぎる姿勢や環境
スポーツを嗜むことが好きな学童や中学生から大学生までの当人とその家族は小さい頃から日本的な体育慣習の中で常に勝負を優先する指導を受けてきたし、その指導を受けてきた人間が次世代の指導にあたるといった循環の中で育まれてきた。
小学校でも中学校でもトーナメント制の一発勝負を前提に大会が企画運営され、敗者には勝者からの圧倒的なマウントと取られても仕方のない上から目線を獲得することができてしまう。
よく耳にするのは「1位と2位の差は大きい」といったことで、どの競技でも他のコンクールなどを行なっている文化系に類する事柄においても同様の認識を得られるはずだ。しかし、実社会においては2位と1位との差は一発勝負で決まらないため、いかようにでもなる。
とにかく勝ったものが正しく、勝てば官軍と呼ばれる。勝ったものが偉く、すばらしいと賞賛されるのだ。各競技の指導者はそれを目指すし、それ以外は何をやっていたとしても敵わない努力をしてきたことを後悔し、次のぶっつけ本番を目指す。
結果、「真剣勝負以外は遊び」だと冷笑する態度や姿勢を生み出した。
小学生の時期に日本一を決める意義などあるのかどうかでいうと、その時点での優劣を決めることを意味することを推奨することは決してされるべきではないのではないか。その時期から「負けてはならない」勝負の仕方をすることは、幼い彼らの挑戦する事柄を削り出すことになりかねない。
なぜなら、指導者は「負けないため」「ミスを冒さないため」にスポーツの現場で指導せざるを得ないし、それによって成果や結果を出さなければ自らの関わる立ち位置を失ってしまいかねないのだから必死になることによって、そもそもが「遊び」であるはずのスポーツに余白や余裕が生じなくなってしまう状況を生み出した。
ここからいえるのは、そもそも仕組みや構造の問題であり、現場の指導者や教育担当者は責められる立場にもなければ、それほどの権限もない。ただただ、仕組みや構造に乗って年端もゆかない年少年齢の子たちに向き合っている・向き合わざるを得ないという悲しい事実だ。
▷ 優劣自体はつけるべきだが未熟な人間を生み出しかねない
無論、社会生活においては常に優劣がつけられ、比較される世界線であることは否定しない。むしろ、競争社会によって有益さや便利さを享受できるようになったのは紛れもない事実である。寒い冬の時期に暖かい自宅を用意できるのは競争社会によって育まれた技術的な恩恵を受けているからに他ならない。
実社会では競争をさせないことなどあるべきではないし、あってはならないと考えている。この点を否定するつもりは一切ない。
ところが単一の分野で成果を出した人間は、その成果に固執することがあるため、そればかりが成功体験として残ってしまい、結果的にそれによって他人の上位に立とうとする態度や姿勢を生み出す可能性は否定できない。
また、年齢に応じて態度や対応の仕方を変える傾向にあったり、「同期」などといった意味不明な属性を持とうとすることなども日本の体育教育的な問題点ではないかと感じている。
年齢によって関係が上下することなど、本来的にはまったく意味のない姿勢である。
実社会における序列は成果や結果によって生じるものであるとするならば、年齢によって上下関係を築こうとする人間がしていることは競争社会に則った行動が取れないからこその情けない態度であるといわざるを得ないではないか。
ところが、競争社会だからといって年功序列を崩してしまうようことは日本の雇用慣習を否定することになりかねないと考えた”当時の”教育者や産業関係者は、どうにかして学校教育から産業界へのスムースな移行を図ろうとした。
その結果、年齢による上下関係や就労年数によった関係性、さらには「〇〇年組」などの同じ時期や年度に居合わせたもの同士を括ることによって横一列な関係を強制したのだろう。
その成果は周りを見渡せばわかる通り、何のハンディも抱えていない人間ながらも成果も出せないような人間が自分よりも年齢の低い人間に対して上から目線で話せるような事態を引き起こしている。
繰り返す。勝敗による優劣をつけること自体は決して否定しない。
小学校や中学校時期に学校教育現場の理由に合わせたトーナメント一発勝負などを頻繁に繰り返す必要性などないし、それによって年齢に関係なく目標設定した上でスポーツに挑める環境や仕組み・構造を構築することの方が全体としては底上げになるのではないかとは思う。
▷ ブラック企業の温床になっているのではないか
詰まるところ、日本でいうところの「スポーツマン」とは「24時間働けますかマン」であり組織従属的な「”イエス”マン」醸成装置となっている可能性が高いのではないか。
組織従属なイエスマンの醸成装置とは、つまりブラック企業の温床だろう。
「そんなもの、何も問題ないではないか」といえる人は、さぞ逞しい人なのだろう。ぼくのような無能で人生をどうやったら楽に楽しく気楽に過ごすことができるのかしか考えていないような人間には到底理解のできない思考である。
ブラック企業の根本的な問題は企業組織における経費部分の大きな比重を持つ固定費である「人件費」を低減できることであり、いわゆるホワイト企業とブラック企業が同等の人員を抱え、売上も同等程度であった場合、勝ち残れる可能性が高いのはブラック企業ということになる。
なぜなら、ブラック企業は定額働かせ放題でサービス残業を常態化させる術を用い、利益を創出することが可能で、企業の存続する・存続できる大きな要因は「利益の拡充」に他ならない。
つまり、売上規模が同等程度の企業が多く存在すればするほどに、ブラック企業の比率が多くなる可能性が高くなるのだ。
今後、日本の労働市場における人材獲得のコスト自体は膨らんでいく。これまで何も施策を打たずにくる球だけを打ち返すような姿勢でいた組織は新規で人員を確保できず瓦解していくケースが増加していくはずで、労働市場にいる働き手と呼ばれる人たちは「短い時間で高い収入を得たい」が、企業側は「低賃金で長時間はたらいてほしい」。
この認識の溝が埋まることはないうえ、高い賃金を支払えるだけの企業体力を備えている組織だけが勝ち残れる上に人材の確保がうまくいく構図となる。反面、それ以外の組織の生き残り方としては、おそらく「低賃金だろうが安定して雇用を継続できる」といった安心感になるのではないか。
その代わり、低賃金であることを曝け出すため、個人が収入をあげるための方策である副業を許容できるだけの器量自体が求められるのも仕方がないことだろう。もちろん、すべての労働人材が副業を可能にするとは思わないし思えないため、安定的に就労できるのなら...と複業的な働き方をする人が多数派になるとはいえない。
ただ、短時間で安定的に就労できる環境があるならば、複業的に就労することを目指す人も出てくるし、それを許容と受容できるだけの土台を備える必要はあるのではないか。
そんなことを考えていると、現代の就活市場や早期の転職市場において持て囃されがちな「スポーツ人材」は、果たして社会の役に立っているのかどうかを疑問に持たざるを得ないし、ひいてはスポーツを好きな人が減少していく世界線の方が社会にとっては有益なのではないか。
そんな冷たいとは思うものの、少し離れたところから見える景色はこんなふうに見えているぞ、なんて戯言を記載して終わりにする。
こんな話を妻さんにしたら「貴様だってその一人だろうが」と冷徹かつ予断を許さぬ、ありがたいお言葉を頂戴した次第である。
ではでは。
えんどう
▶︎ おまけ
▷ 紹介したいnote
スポーツから離れれば離れるほどに気づくことがある。スポーツの中だけにとどまっている認識はないにしても、スポーツの価値事態を拡大解釈してしまいかねない。その状態を指摘してくれる人たちは見知った顔の中にはいない。だが、価値を挙げてくれる人が外にもいるため、なかなか冷静な視線を持つことはできなかったりする。
スポーツ音痴のわたしが、パラリンピックでアレするまで(前編)
「前編」ときたら「後編」だと思いこみがちだが、その実は「中編」が挟まれることの切なさをぼくは名探偵コナンから学んでいる。学んでいるはずなのに、いつの間にか中編が入ることを失念している自分もいるため、かなりの割合で切なさを思い返す羽目になっている。岸田さんのこれもそれだ。
平地さんはこうやって明言した上で実行までする素晴らしき人材だ。こういう人を潰してはいけない。ましてや、ぼくはそんなスポーツ界からケツをまくって逃げた側なため、応援するということすらおこがましく思えてしまう。しかし、がんばってる人を応援して何が悪い。がんばれ!
▷ 本noteに関連する紹介したい書籍
葦原さんは現在ハンドボール協会で代表理事を務めているが、以前はB.LEAGUEの事務局長を務めていた。まさにスポーツビジネスにおける陣頭指揮者の一人な訳だが、B.LEAGUEの誕生とスポーツの収益化、さらにいえば「稼ぐこと」がmust事項となったのはこの頃からだ。
▷ 著者のTwitterアカウント
僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。
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