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スポーツが嫌いな人へ

引退してスポーツを離れて良かったのは、スポーツを嫌っている人や、憎んでいる人、やっていたけど傷ついている人がこんなにいたのかと気付かされた事です。おそらくスポーツの世界だけにいたら、スポーツが好きな人と、スポーツによって成功体験を持つ人との接触が極端に多かったと思います。

そもそも私の人生は少し特殊でした。特殊だということに気がついたのも、引退して違う競技の方と話したからなのですが。小学生時代は読書部というところにいて週に一回図書館で本を読んで読書感想文を出すということをやっていました。足が速かったので社交的でクラスのリーダーっぽくはあったのですが、母親はいつも性格の第一番目を「繊細な子」と言っていたので、内向的だったんだと思います。運が良かったのは陸上部の先生が最初に「陸上競技と運動力学」という本を貸してくれたことです。「スポーツは科学であり、合理性を追求すれば強くなる」という考えがまず生まれました。

先生に対し意見を言って、議論することが当たり前で、自分の目標は自分の目標シートに書いてそれをもとに先生と1on1でディスカッションして目標を決めていました。権威に屈するという感覚が皆無なまま高校時代もその性格を許容されました。先輩に敬語を使ったこともありませんし、中学時代は先生にも敬語ではありませんでした。おかげで世界大会で一番偉い先生に(今一番尊敬している先生ですが)ペットボトルを投げつけるなど大変問題のある選手になりましたが、それもおおらか?に陸上界には許容されました。

そのような人生でしたから、少なくともスポーツが嫌だなと思ったことは一度もありませんでした。ただ、スポーツ界にいたので怒鳴っている長距離の監督や、大変な縦社会がある球技の世界を垣間見ることもあって、あれだったら絶対スポーツをやっていないなと思っていました。

スポーツをやっている方々がスポーツを素晴らしいと感じることや、スポーツを楽しむことに引け目を感じる必要はないと思いますが、人生のスポーツ体験でひどい思いをして傷ついている人がいることはきちんと理解する必要があると思います。

既存のスポーツシステムはスポーツ好きも生みましたが、スポーツ嫌いの方もたくさん産んできました。人間には好き嫌いがあるので、みんなが好きになることはありえませんが、ニュートラルな人間やましてやスポーツが好きだった人間を、スポーツ嫌いにさせてしまうことは大変な問題です。私が聞いた話では「スポーツは好きなのだけれど、スポーツ界の文化が嫌いだ」という声もありました。これは本当に重たく受け止めないといけないと思います。

スポーツは社会の価値観を増幅させる機能があると思います。増幅させるということは、抑圧文化を広めて人を萎縮させてしまうかもしれないし、個人の才能を伸ばし自主性を高めることもできるということです。ということはスポーツ界が社会のあるべき姿を想像してそこに向けて変わっていけば社会を変えることもできると私は信じています。

我が国最大の予算の使用先は社会保障費であり、医療費です。運動習慣と食習慣はこれに大きな影響を与えています。日本は国民皆保険を採用していますから、誰かの医療費を皆で負担し合う構造になっており、皆が健康でいることは国民全体にとっては正のインセンティブが働くことになります。例えばスポーツが市場に委ねられているアメリカでは、親の経済格差が運動機会の格差になり、肥満率(これは食も関係しているので複雑ですが)につながり寿命格差につながっているというデータがあります。マイケルポーターが「医療戦略の本質」で予防は対処の数倍コストパフォーマンスが良いと言っていますが、まさにその予防の入り口にあたるのが体育だと私は考えています。

好きにならなくても、人生のどこかでスポーツは楽しいかもしれない、体を動かすと楽しいと感じてもらい、なるべく生涯にわたって運動を続けてもらう環境を作る責任がスポーツ界にはあると思います。既存のスポーツの形を一旦とっぱらいあるべき社会の形からスポーツをもう一度作り始める必要があるのではないでしょうか。


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