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GIGAスクール構想は”教育の公正性”と”個別最適な学習”の狭間を埋められるのか

どうも、ゑんどうです。

GIGAスクール構想によって一人一台、端末が配布(貸与)されて3年になります。GIGAスクール構想のGIGAって、情報量を指すByteバイトを指す際に使われるGIGAギガではないんですよ。

「学校に高速インターネット回線が通って、児童・生徒に先生まで使う際に使用量が大きくなるからGIGAスクールなんでしょ!」ではありません。

GIGAスクールのGIGAは、Global and Innovation Gateway for Allの略で「すべての児童・生徒にグローバルで革新的な扉を」って意味が込められているそうです。

いわゆるICT教育をやって子どもたちがグローバルに活躍できる人材になれるように支援しましょうって取り組みなわけです。ICTとは Information and Communication Technologyの略で、情報通信技術。ICT教育ってのは情報通信技術を利用した教育ってことになります。

ICT教育を全面に押し出すGIGAスクール構想ってのは何を目指しているのかってところと、家庭環境の違いによって生じるとされる教育の公正性の狭間を埋めてくれるのかってことを考えてみます。

■ GIGAスクール構想で実現されるべきこと/家庭側がチェックすべきこと

GIGAスクール構想によって何を目的にしているのかをみてみます。

✔︎ 一人一台端末と、高速大容量の通信ネットワークを一体的に整備することで、特別な支援を必要とする子供を含め、多様な子供たちを誰一人取り残すことなく、公正に個別最適化され、資質・能力が一層確実に育成できる教育環境を実現する
✔︎ これまでの我が国の教育実践と最先端の のベストミックスを図ることにより、教師・児童生徒の力を最大限に引き出す

出典) 文部科学省『GIGAスクール構想の実現へ』リーフレットより

端末を配布するだけでなく、学校に高速大容量なネットワークを整備しつつ、発達障害などを抱えている配慮が必要な子どもたちにも個別最適な教育を提供できる環境を整え、その前提条件を基にこれまでの教育で培ってきたノウハウを駆使していきましょうってことなのでしょう。

GIGAスクール構想において、家庭側が監視しなければならない箇所を挙げるとするなら、ぼくは「公正に個別最適化され、」の部分だと考えます。

一人一台、補助教材として端末を配布することなんて前提条件なだけで、本来的にやりたいのは特別な配慮が必要な発達障害や学習障害を抱える子どもたちにも個別最適な学習が提供され、生き生きと学ぶことができるようにすることです。

同じ学年の中で身長と体重が大きく異なる場面を想像してください。

たとえば、同じ小学校3年生でも身長や体重が5年生ぐらいに大きな子もいれば、1年生のように小さな子もいます。この違いは成長度合いであり生物学的年齢により違いですから、個別に異なるのは当然です。

生物学的年齢によって成長・発達の度合いが個別に異なるのであれば、学習の理解や運動習熟度も個別に異なって然るべきで、本来であればここには合理的な配慮があるべきでしょう。

ところが、学校教育の世界では学年が同じであれば掛け算を習得していようがいまいが関係なく、学習指導要領に沿って授業は進められるし、学年も引き上がっていきます。

それを学習面ではICTを駆使することで公正にしていきましょう、と。

つまり、本当にこれが実現できているのかどうかを、児童・生徒と暮らす各家庭で厳しくチェックしていく必要があるといえます。

■ 教育における”公正性”とは何か

GIGAスクール構想における目的において、誰一人取り残すことなくってところに公正性を重んじる態度が見えるわけですが、平等ではなく公正を使用している点は強く受け止める必要があるのではないかと思っていたりします。

平等と公正の意味については個々人で調べてもらいたいのですが、今回のGIGAスクール構想でいえば全員に端末を配布することは平等ではありますが、クラス内に30名以上の児童生徒が内在する環境の中には発達障害等の特性を持っている児童生徒がいることを考えると、公正ではないといえます。

たとえば、我が家の次男くんはLD(Learning Disability: 学習障害)の特性があることが過去のWISC -IVやLD-SKAIPといった各種検査を受けたことによってわかっていて、とくに国語の授業を受ける際には大変苦労し、授業進捗についていくことができない場面が少なくありません。

発せられた教員からの指示を処理することが苦手だったりするので、板書についていけなくなったり、指示内容を咀嚼している間に授業の展開が次に進んでしまったりするわけです。

そこで一人一台に配布されている端末を利用し、板書内容をすべて撮影したり、紙のプリントではなく端末内で済ませられる課題にするなど、いわゆる合理的配慮を行うことが公正性の担保となります。

また、上述したように公正な個別最適な学習機会の提供をすることが本来の目的であるはずですから、合理的な配慮が必要な子どもたちもイキイキと学習できるような状況にすることが必要なわけです。

端末を配布し、できる子どもたちを放っておける状況が生み出せたともいえるわけで、学校教育の現場では平等を重んじるばかりに一律な態度を学校側としては提供しようとしますが、平等な態度では成長発達の遅い、もしくは障害を抱えている子どもたちが苦しむことになっていることでしょう。

個別最適な学習を提供するためには合理的な配慮が必要で、合理的な配慮をするためには「平等」といった言葉をあまりにも乱用すべきではないのではないか、とぼくなんかは思ってしまいます。

■ ICTを活用することの意義

AIによって仕事が奪われる、なんて話を聞いたことがある人も多いでしょう。それって本当でしょうか。

これからを生きる子どもたちはAIなどが当然のようにある世界線で生きているわけですから、それらとの共存を図るべきであり、拒絶なんてできない状況なわけです。

AIが人の仕事を奪い続けるのであれば、彼らの未来は仕事がなくなってしまうのでしょうか。

そんなわけあるかい!って話なのはわかっていますが、いまを生きる大人たちの中には強い拒否反応を起こしている人たちもインターネットを回遊していると目にしたり。

GIGAスクール構想によってICTを活用することが前提化されているわけですが、適切に駆使されることによって公正性が前進する可能性があることは他の領域によって少しずつ解明されつつあります。

以下はミクロ経済学の話ですが、タクシー乗務員にタクシー需要がある場所をAIが指し示すようなシステムを導入したことによって高スキルなタクシー乗務員の生産性は変わらなかったものの、定スキル乗務員の生産性が7%向上したとする実証実験結果が出ています。
AIが生産性に与える影響を、タクシー乗務員のミクロデータで実証

AIが人の仕事を奪ったのではなく、低スキルなタクシー乗務員の仕事を助けることになっているわけです。

これは経済学の観点からみた話ですから、一様に他の分野に応用できるとは安易に言い切ることはできないものの、ICTを駆使した教育環境が整備されることは「公正で個別最適な学習」を行うためには非常に明るい未来につながる可能性を示唆しているのではないでしょうか。

おわりに

もう、なんというかお願いだから端末が補助教材として終わってしまうことは避けてもらいたいんですよね。

これが駆使できるようになれば、先生方がもっと楽に仕事できるようになるはずなので、紙にこだわることなく、これまでの雑務などの苦役から解放され、イキイキと児童生徒と触れあえるような状況を生み出してもらいたいと思う次第でございます。

ではでは。

ゑんどう(@ryosuke_endo


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