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"無意識"に相手を苦しめているかもしれない

唐突なんですが、タイトルの通りです。

僕は小学校の頃から「人の気持ちを考えて」行動するように言われてきたという記憶が非常に強く鮮明に残っていますが、皆さんはいかがでしょうか。

「人の嫌がることはするな」とか「人がどう思うか考えろ」みたいな言われ方を、両親もそうですし、学校の先生といわれる人たちにも散々と言われてきましたのです。

だけど、例えば競技スポーツの現場では思いっきり真逆のことをいわれる訳ですよ。「相手が考えてることの逆手にとれ」ってね。

共通しているのは、相手の考えていることを予測することや思い浮かべることで、あとはこちらの姿勢が優しくする必要があるのかどうか。それによって行動が変わるって感じなんだと理解してます。

けどね、一つ思うんですよ。

相手のことを考えてるつもりでも、相手のことを考えていない発現や行動って取ってしまうし、結果的にそれが同調圧力だってことになろうもんなら大変なことですよね、と。

というのも、佐々木俊尚さんの朝キュレでToggeterの中のまとめ記事が紹介されていて、その内容が「ちょっと前までは結婚を考えていた人が幸せアピールのリプから絶望を感じたからやめた」という内容で、これがちょっと読んでいて堪えたんですよね...。

詳細は内容をご覧いただきたいのですが、こういった自らの成功体験を悪びれもなく人に押し付けることって、根本的に相手のことを考えていないというか、そもそも相手のことなんてどうでもいいって態度でしかありません。

もっといえば、佐々木さんもおっしゃってるように、"多数派の無意識の抑圧"ってことになる。それを端的に表しているのが、これまでぼく自身も散々といわれてきた殺し文句というか脅し文句となる以下。

中抜きさせていただくと、この部分です。

どうも世の中には「できないことから逃げるのは甘え。一生懸命努力して克服しろ」と考える人が一定数いて、そういう人達に限って声が大きいのは困ったことだと思います。

いわゆるポジショントークやマウンティングすることが得意な人たちが放つ言葉です。自分の立場を利用して物を言いたがる、もしくはそれがないと意見が言えないし、そのポジションが確立されていないと強く出てこない人たちに対する警鐘ですよ、これ。

そして、この根本的な部分が少数派をさらに傷つけることになると思っていて、日大アメフト部の問題や日本女子レスリング界のパワハラ問題に紐付いていくのだとぼくは考えています。

多様性という言葉は、すごく体のいい言葉であることは重々承知していますが、どうにもこうにもこれを使わないと、これからの世の中に対して説明がきかないことが多くなっていくのではないかと心配しています。

多様性のある社会は、許容度の合い高い社会であり、多岐にわたる価値観を受け入れ続けるか、そもそも受け入れるのかどうかを議論し判断することを強いられる社会です。

無言でしかも多数で抑圧してくる彼らにとっては、自らの価値観がすべてであり、そこから外れるものは悪だという決めつけとも取れる考え方は、多様性が前提となる社会では少数派となりかねません。

現在、日本の中で多数派(だと信じているクラスタ)の人たちは、自らが考えていることは多くの人が同じ様に考えていることであり、そこにあるのは揺るぎない正義だと考えているのではないでしょうか。

ここ最近、ぼく自身の身近でもそうですし、Twitterを始めとしたSNS界隈でも同じ様に多様性を許容できない人たちの悪意とも取れる言動を見ていて、それを「無意識の善意であるはずの敵意」と呼ぶことにしました。

こんなTweetが出てくるのも、自らの"無意識の善意であるはずの敵意"を振りかざす人がいることの証左だと思っています。

もう思わず「こんなのやっかみじゃん」と思わざるを得ないのですが、言ってる人たちは真剣に、いたって真面目に、そして、その瞬間は対象となる人の為を思っていっているのではないかと思うわけです。

このTweetをしている「しぃたま@育児絵描き母」さんが述べるように、そもそも出かけている時点でネグレクトではないのですが、そうなってしまうと、ネグレクトだと評した人物は、「ネグレクトという単語をただ単に使いたいだけ」なのではないかと訝しげたくもなります。

ましてや、それを言っている当人たちが、それこそ対象となる人物に対して、その人の為を思っていっているのであれば、これほど不幸なことはありません...。

けど「無意識の善意であるはずの敵意」を知らずに振り回してしまう人は、相手がどんな状況だろうが関係なく、自らの意見が相手を救うと信じてやみまないため、その気持を止めることができません

彼らに絶対的に足りないのは許容する力、つまりは態度なのだけど、自分とは異なる価値観や考え方、物事の優先順位の付け方や人種などを受け入れることができない、もしくは苦手な人たちです。

繰り返しますが、彼らに悪気はありません。自分とは異なる価値観に触れても、それを理解できないか、しないことにしているだけです。もし、受け入れてしまおうものなら、自らの範疇からはみ出た考えが自分の中に入ってきてしまうため、自らが迷うことになります。その「迷う」という状態が非常に苦手であり、苦しむ要因となってしまうため、避けることが必要であり、避けるためには相手のことなど考えている暇はありません。

だから彼らは、自らは安全地帯にいながら自らの価値観とは異なるものを受け付けないようにし、言葉をかけて相手を救おうとしているのです。

それを、いわゆる少数派になってしまう人は、今後、構えなければならないのかもしれませんが、果たしてそこまで気を使う理由はなんなのかといえば、自衛のためでしかないのです。

そして、自分がいつ多数派になったとしてもポジションでマウンティングすることなく、相手の気持ちではなく立場を受け入れた上で意見を汲み取れないと、ただただ相手のことを追い詰めてしまうことになってしまいます。

そこで僕たちはどうしたらいいのかを考える必要があります。

いったい、誰のためを思っての行動や言動なのか、と。

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株式会社シーエスレポーターズ(コミュニケーションデザイン室の室長/ SNSチームリーダー)https://cs-reporters.com / オフィスえんどう代表/ #スポみら 主催者 /クラウドファンディング達成者/ #えんどうnote 更新中 / #オールユアーズ公認共犯者

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#えんどうnote <2018>
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コメント (8)
僕の持論ですが、その「多様性」という可能性こそが、多様なものへのハザード的無理解を読んでいるという逆説です。多様すぎて、様々な考え方がありすぎて、自分の価値観だけを大事にせざるを得ない、という可能性はないでしょうか?
シーカッコさん、コメントありがとうございます。
多様性を受け入れない、というのも多様性を否定することになりますので、シーカッコさんのいう逆説的な無理解については理解しているつもりですし、結局、大切にするのは自分自身だというのは、ぼくもその通りだと思います。だからぼくは、ひろく浅い関係を多く築くことが幸福につながるのではないか、と考えています。
今一番怖いものは、家族の同調圧力と、善意の陰にかくれた無意識の悪意です。
無意識だから、そこに悪意を感じて、それを伝えても受け付けられず苦しいですね。
自分も無意識のレベルでは、きっとあまり自慢できる内面ではないとは思いますが。
独り言でした。分からないことを考え続ける体力は大切にしたいですね。
ピュアと見せかけてサイコパスなんだと思います
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