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自尊心と誇りと埃

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

##なに書いたか
・自尊心を深く考察したことなかった
・人生をファッションとして考えてた
・自分が無能だと自覚できるようになってから幸福度が増した

坂口ジャスコさんの『毒親と自尊心と絆創膏』

坂口ジャス子さん(@jusco0)のnote記事毒親と自尊心と絆創膏、読みましたか。そう、ボクは読んだのです。

「部屋とワイシャツと私」的なタイトルだけど、その選ばれている言葉は文章の中で、自尊心への向き合ってきた経験を絡めつつ丁寧に回収されていく構成になっていて、ボクは少し衝撃を受けたのです。

過去に毒親からの仕打ちによってツラい経験をされている方は、記事内の冒頭にも注意書きがある通りオススメはできないものの「自尊心」についての考察が深いので、読める人はオススメです。

自尊心とボク

ボクは自尊心をそこまで深く考察したことがありません。

向き合ってこなかった、と書いた方が適切かもしれませんが、とにかくボクは自信を持てたと実感することがあまりなく、いわゆる承認欲求を抱きつつも、それを得ようとするだけの行動や成果を出せるような実力や能力が欠如していることを自覚してもいます。いや、自覚できるようになりました

根拠のない自信みたいなものを抱いていた時期はあったと自覚しているのですが、いま振り返ってみると、抱いている根拠のなさと内容が明らかに「おかしいだろう」とツッコミを入れたくなるものです。

当時ツッコミを入れてくださったみなさん、ありがとうございました。数年、内容によっては10年ほどかかりましたが、やっと理解できた次第です。

根拠のない自信を持っていたとしても、ボクは自分を認めること、いわゆる自己承認みたいなものは持てていませんでしたし、どこまでできたらOKだとか、どの基準までできたらいいのかってことを定められませんでした。それ、今でも大して変わってないかもしれないんですけどね。

ただ、今であれば、うまくやってる人の行為・行動を水準設定した上で、分析・研究しつつ、自身でやる場合にはどうしたらいいのか検証して...みたいなことを少しぐらいは思いつくのですが、ほんの数年前のボクは「意識高い系になれない系」でしたから、自己啓発に乗せられるだけ乗せられた上で、再現性のない妄言に踊らされる泥人形として生きてきたような気がします。

人生をファッションだと思ってきた

そんなことを書くと、結婚してくれた妻さんや三名の子どもたちに失礼だろう、なんて指摘をしてくださる方はいらっしゃるかもしれませんが、どうみてもカッコつけてきただけなことは自覚できているのです。

妻さんからみたボクは常に自信たっぷりで折れないところがあると言いたくなるのかもしれませんが、それは逆なんです。

なんていうか、憧れやカッコよさみたいなファッションとしての人生をどうにか形にしたいと思っていましたし、誰かの犠牲や苦しみみたいなものを確認できないと、自分の存在意義が確認できない状態だったと振り返ってます。

自分が否定されるのだけはイヤで、自分だけが非難を受けている状態を脱すしたいと考えていましたし、自分の立ち位置というより精神的な安堵を得るためだけに、他の誰かの欠点や弱点を探してだしては指摘する、なんてことをやってきてしまったのです。最低なやろうですよ、ほんと。

それは内的に処理することを基本としてきたつもりなのですが、外的に発露されてしまったこともあるとは思ってます。それを目の当たり、実感してきた方々には改めて申し訳が立ちません。すいませんでした。

無能であると自覚してからの幸福観

こうやって文章として書き起こしてるってことに、少なからず希望を見出してもいるのですが、ダメな自分を受け止めることをできるようになったからだと自覚してます。

なんていうか、自分の幸福を自分で決められるようになった。そんなところです。別に誰かに求められてきたわけではありませんし、ボクの人生を否定されてきたわけでもありません。

「他人がキラキラして見える」って、ただそれだけなんです。

他人のキラキラしてる部分をみては、その人がやっているぐらいだから自分にもできる、だから自分もそうすることで他人からキラキラしてるように見えるはずだし、そうすることが自分にとっても自分の家族にとっても幸福なことなのだ、と本気で考えていたのです。

冷静になってみると「どうしようもないなぁ」と思いますし、同時にかわいそうにも思えてしまいますが、今はそれをきちんと否定できる自分になれていることを実感してもいるので、少しは成長しているのかもしれません。

そんなわけで、ボクは自分に自信もなければ、自分のやってきた功績なんてものがあるとは思えません。正確にいうと、ボクだけで何かを成し遂げられるような人間ではないってことを事実として認識しているだけです。

無能は判断を間違うものだと経験から知っているので、仕事でも家族との生活でも、良い方向へ働かせるためには自身の現状を丁寧に把握すべきだと考えているだけで、それ以上でもそれ以下でもありません。

勘違いしてしまわないように、ただただ、事実を受け止めることを心がけている。それができるようになったからこそ、自尊心みたいなものを少しずつ認識できるようになってきました。

つまり、ボクにプライド(誇り)なんてものはなく、ホコリ(埃)ぐらいはついているかもしれませんが、それを認識して払えるようになってきた、そんなところです。

それでは、また!


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