見出し画像

学校の授業で何が好きだったのかを振り返り、改めて「好きを仕事にする」べきではないと思った。

ようこそ、お越しくださいました。

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

もう30代も後半でしっかりとしたオジさんになってきたのだが、この年齢になり子どもたちが小学生になったりしてくると学校との接点が多くなる。

今年度は次男くんが小学生に上がったのを機にPTAの役員にまでなってしまった。そんな風に書くとぼくが主体的に参加しているかのように思われるかもしれないが、残念ながら影からチクチクと面倒な事をいうだけのオジさんである。

ぼくが小学生当時にPTAといえば運動会の日に挨拶をする人と、何かしらの式典があると呼ばれて偉そうに挨拶をする人って認識だが、ハッキリといって大人になってみると何の価値があるのかを再定義しなければならない状態なのだろうと実感するばかりだ。

そんな大人のどうでもいい活動を傍からみていた児童同時、ぼくはどんな授業が好きだったのだろう。なんとなく思い返してみたのだが、正直、何が好きだったのかを思い返しつつ、どこがすきだったのかといった理由を考えてみると何にもわからないことが判明した。

その点を少し。

▶︎ “好きな授業”なんてなかった

よく考えてみると、学校のクラス内の雰囲気や気になるあの子との会話が楽しかったのは間違いないが、授業というと大して楽しかった記憶はない。

桃鉄で地理や各地の名産を覚えたぐらいだし、信長の野望で安土桃山時代から戦国時代の末期辺りまでを記憶できたぐらいなもので、カエルの解剖や虫メガネによるアリへの焦点地獄など、本質とはいい難い部分で楽しんでいたことはあるものの全般的に「授業が好き」ではなかった。

それは次の段階に進学を果たそうが変わることはなく、根本的にぼくは”好きな授業”を抱いてはなかったことに間違いはない。

強いていえば、得意な授業や授業内の課目はあった。

肉体的に健康的で頑丈そうなところがあったから、早生まれながらもクラスや学年の中でも走るのは早い方だったし、音楽も音程を外してしまって音痴なのではないかと疑念を持たれることもあったが、演奏などで立派な姿勢を保ちながら取り組めていた。

当時は目立つことが好きだったようで、割と運動ができたり、姿勢よく演奏をすることで評価を受けることに気を良くしていたと記憶している。

つまり、好きなことは目立つことで、それを達成するために得意なこととして体育や音楽などをこなしていたものの、だからといって”好きな授業”なんてものはなかったのだ。

▷ 好きと得意の差異

ここで明確に「好き」と「得意」の差異を認識する必要性が出てくる。
得意なことは実用的な話になるが、好きは趣味嗜好の範囲を出ない。仮に実用的な部分にまで好きが侵食できているのだとしたら、かなり幸運な状態だといえる。

好きだからと得意な人に敵わないことなんてザラにある。

サッカーが好きだからといってJリーガーになれるわけでもないし、野球が好きだからといってプロ野球選手になれる人ばかりではない。”好きだから”で食い扶持を稼げるようになるだけの実力やスキルを身につけられるのかというと、それはあまりにも過大に期待をかけすぎている。

得意だからといって好きなわけでもない。

好きと得意の間には奇妙で微妙な関係となる差異がある。

たとえば、得意になる過程で「好き」だと感じる時間が多々あるのかもしれないが、それが永続的なものかといえば違う。持続・継続する中で「好き」ばかりではいられなくなり、いつしか機械的に得意なこと=身銭を稼ぐ手段として割り切ったような接し方になることもなくはない。

「=嫌い」ではないものの、純粋無垢な片思いの相手を眺めているだけで満足!といった盲目的な状態からは距離がある状態になってしまう。

それが悪いとは思わない。むしろ、「好き」と「得意」を区分けできている時点で精神的にはかなり成熟してるのではないか。

▷ 好きを仕事にすべきではない

最近は「好きを仕事に」なんてことを標語化し、生活時間のさいてい1/3を占めることとなる仕事時間を好きで埋め尽くそうとする人たちがネット界隈を中心に出てきた。

正直、好きにすればいいと思っているのだが、そんな雑言に囃し立てられては誤解しながら「好きを仕事に」仕様と躍起になっている人たちをソーシャル・メディアで目にしてしまうと、かなり痛々しい気持ちになってしまう。
好きを仕事にしたところで誰もが食えるようになるわけではない。

それは上記したとおり、絵が描くのが好きだからといって売れるようになるわけでもなければ、走ることが好きだからといってプロランナーとしてスポンサーを得ながら走れるわけではないのであって、そもそも身銭を稼ぎ出すことができている人は「得意」が強い傾向にあるだけだ。

いくら好き要素がたくさん認識していて、好きな事柄を挙げていけといわれたらドンドンと出てくるような状態になっていたとしても、得意でなければ必要とされない。必要とされるだけのスキルや経験を含めた実力が伴っていないのだとしたら仕事として成立しない。

ぼくだって仕事の何たるかを理解しているわけではないものの、根本的に誰かの困りごとを解決できる人に仕事はやってくるし、誰かを助けることができる範囲を把握した上でどこに投下すればいいのかを自覚している人が仕事を獲得できる。

好きなことがあるとしても、それが趣味なのか業務として請け負えるだけの質を担保できるのかを明確に分解整理し、好きの範疇を逸脱し業務を担いつつ得意だと豪語できないのであれば、仕事にすべきではない。

▷ 根本は好きな授業のせいではないか

上記してきたような誤解が生じる根本は好きな授業とやらを質問する大人側の責任でもあるように思えるだけでなく、それを実際の評価として提示するシステム的な問題なようにも感じる。

小学生ぐらいであれば、好きな授業に没頭することで点数や評価が伸びることは容易に可能だろうが、そこで得意ではなく好きだと認識してしまうことによって「好きを継続していけば評価される」なんて具合に歪な誤解が生じることに加担しているのではないか。

子どもたちを「誤解させること」、つまり得意なことにドンドンとのめり込ませ、その深度と範疇を拡大させていくことは積極的にやっていったほうがいい。

しかし、得意=好きと混同してしまうことは将来に禍根を残すことになってしまう可能性がある。好きだからといって得意なわけでもないし、得意だからといって好きなわけでもないのだ。

子どもの頃から自らの傾向を掴みつつ、何を持って将来の自分に役立てるのかを「周りの大人」がいい加減な評価をすることで陥れることにならないよう注意することが日本の将来世代を担当するものとしての責務なのではないか。

そんなわけで、ぼくは好きな授業なんてなかったから得意な授業もなかった。以上である。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

わたしのすきなもの
sachiさんのnoteは本文中の「スキ」と「得意」を説明するのもうってつけな内容だ。sachiさんの好きを得意なカメラで撮影することで表現している。ぼくがいいたかったのはこれだ。ありがとう、sachiさん。。

とうぜん、すきなことを仕事にするだけが正解ではない
エッセイを書くことを好きなことで、それを仕事にすることに対する葛藤や苦悩を描いてくれている。生活と仕事を切り離すのではなく、いや、そもそも切り離すことなどできない。ワークライフバランスというが、そんな分断的な生き方など誰もできないのだ。

「すき」を仕事にするということ
天職と表現しつつ「すきと仕事」について自身の家族との関係にまで踏み込んで書いているnote。もしかしたら、自分の人格と家族の人格が別ものであることを認識しなければ「好きと得意の区分け」がやりづらいのかもしれない。

▷ 紹介したい関連書籍

仕事の教科書 きびしい世界を生き抜く自分のつくりかた
世の中に出ている働き方に関する書籍の多くは「いかにして他の人間と差別化するか」を説くものが大半だ。そうすることで対価を得ることができるし、多くの受注を受けることができるからで、そこに「好きかどうか」は関係ないのである。

▷ えんどうのTwitterアカウント

僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。

リンクを踏むと僕のTwitterアカウントへ飛びます
リンクを踏むと僕のTwitterアカウントへ飛びます

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!