不登校だからと言って無気力に追いやらない努力が大人には必要だ
我が家の長男くんは現在、在宅フリーランスのボクに倣い、在宅登校をして丸2年が経過しようとしています。
在宅登校とは、学校に通わずに探究心の赴くままに学びを取り組んでいこうとする取り組みで、まだ決して多数派ではないものの、相応の児童や生徒が実践している学習方法です。
はい。不登校のことです。すいません。
ボクが書くnoteでは紹介しまくっている文部科学省の統計調査では、不登校児童の数が2021年で24万人を超えており、長期欠席者とした場合には41万人と非常に大きな数になります。
日本財団の調査を見れば、文科省の数自体はあくまでも実数であって、不登校予備群と言える状態にある児童や生徒たちは2018年時点で3倍以上はいるとされていました。
現状の長期欠席者数が41万人というと、石川県金沢市や富山県富山市の人口規模と同等ですから、その規模が大きなものであることはイメージできるのではないでしょうか。
で、その中の1名である我が家の長男くんと対峙してきた中で気づいたことがあります。不登校=怠惰な生活ってのはあまりにも実情からかけ離れた旧来的なステレオタイプなものの見方ですが、その要因を大人がつくっている可能性について。
今回はこれで行きます。
どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。
子どもの無気力は大人の低関心が要因になり得る
不登校な状態になっている児童や生徒は1日中、ゴロゴロとゲームばかりに取り組んでいたり、何かしらの映像コンテンツやYouTubeで動画を見てばかりいて、登校生に比べて非常に怠惰な生活をしている。
そんな風に思われる方も少なくはないかもしれません。それは完全に誤ったステレオタイプな不登校性のイメージに引っ張られすぎです。
我が家の長男くん、かれこれ不登校生活も丸々2年を迎えようというところですから、板についてきまして。秋が深まる頃から初春にかけては調子が悪く、晩春から夏にかけては非常に元気で活発になるって傾向までわかってきました。
まるで光合成の必要な緑黄色植物かのようではありますが、当人にとってはそれ自体が悩みのタネで、それを理解されないこと自体がツラかったりするわけです。
もちろん、状態が良くなかったり他に木を向ける余裕がない時には1日中、何かしらの映像コンテンツにどっぷりとハマり込んで抜け出せなくなってしまうこともありました。
それを受けて、「このままでいいのか」「どうしたらいいのか」と悩むまでは行かないまでも、考えるような機会が少なかったのかというと、毎日、そうやって考えていた次第です。
と、思っていたのですが、最近になって「悩んでるふりばっかりしてたな」と反省するような事態に陥っており、そんな長男くんの一見すると怠惰な姿勢自体も、大人側の低い関心によって起こっていたのかもしれないなと気づいてしまいました。
どんな失敗体験があったのか。どんな成功体験が必要なのか。
長男くん、いわゆるワーキングメモリーが低いため、瞬間的な記憶をすることが得意ではありません。つまり、授業で板書を書き写すために時間が必要。
合理的な配慮としてタブレットのカメラを利用し撮影することも当時は授業内で「やっていいこと」だと当人が思えていなかったこともあり、板書を懸命に書き写したのに、いつの間にかすっかり場面が切り替わっていることに絶望をしたことから「学校で授業を受けること」に大きな挫折と忌避感が生じてしまうことになったわけです。
これも彼から話を聞いていたはずなのに確信を持てなかったがために、頭の片隅に置かれているだけで、まともに対処してこなかったんですよね。
彼は学びの機会を集団で受ける授業っていう形式に挫折したのであって、学び自体が挫折していたわけではないのです。いや、彼の中では同一視してしまえる問題だろうとは思いますが、大人としては、そこを切り分けて個別に対処することが必要だったんだと大きく反省しています。
どういうことか。
たとえば、算数を取り組むにしても、彼は板書を書き写すのに一生懸命で、計算問題を解こうとする際に「周囲と比較」すると遅かったようです。(当人曰く)
授業展開は大半の児童が終わった段階から次へ移行していくわけですが、できなかった児童は空気を読んで「周りについていこう」とします。
自分はできていないのに周りはできると感じ、できなかった体験(失敗体験)ばかりが積み重なった結果、学校での授業を受けられない、受けたとしてもついていけない自分に絶望することになったわけです。
大人が興味と関心を持ち能動的に受容する姿勢を
最近、彼が通信教育用の教材で学びをする際に、必ず隣で支援するようにしています。これまでもやってこなかったのかというと、そんなつもりはありません。いわゆる一般的な会社員の方々よりは向きあい、付き合っていたつもりではいましたが、その質が悪かったのかもしれません。
ボクも在宅フリーランスという名の引きこもり失業者ですから、一応は仕事とやらがあります。ドップリと一緒にやるような時間を作れることもあれば、ただただ隣に座って仕事っぽいことをしているだけのこともありました。
いま思えば、一緒にやっているようなフリをしていただけで、自分がそうやって彼に付き添っている姿勢をつくることだけが目的化していたように思います。情けない次第です。
彼がどこで躓き、何に課題感を持っているのかを確実に把握することはできていなかったわけで、何も彼の成功体験を補助しているわけでもありませんでした。
もっと彼が何を成功したら嬉しいのか。何を乗り越えたら喜ぶのか。そういう本質的で、根源的な伴走の仕方ができていなかったんですよね。
彼に興味を持っているような素振りを見せていただけで、実のところ、ポーズとして彼に興味を持って寄り添っている体裁ばかりを追い求めていたような気がします。
ボクが興味や関心を持っているかどうか。それが表現なのか本当に興味を持ってくれているのかどうか。彼はバッチリと見抜いていたわけですが、それを態度で表すこともなければ言葉にすることもありませんでした。
彼の方がよっぽど大人です。
もっと彼が何かを乗り越えた瞬間、課題に立ち向かっている瞬間で、一緒に闘う姿勢と態度が重要なのであって、横から闘う様子を見ているだけ、応援しているだけではダメなんですよね。
計算の仕方がわからないのなら、わかるところまで一緒に降りて行き、そこから階段を上るようにしなきゃいけない。
そこまで興味と関心を持ってこそ、彼に付き添っているといえるんだよなっていうことを心底反省しながら気づいた次第でございます。
おわりに
ここに記載してきたのは、あくまでもn=1の事例です。不登校な状態に陥っている人たちにはそれぞれの事情があることでしょうし、その数だけ悩みのタネや課題感が異なることでしょう。
ただ、一番近くにいることができる大人が自分に向けて興味と関心を持っているのか。それが表現なのか本質的なものなのかを動物的な直感なのか、きちんと見抜いていることは自覚すべきなんでしょうね。
そういうことに気づかせてもらったこと自体、ボクの人生における幸福度を上げることになっている気がしますが、これが手離れした際には大きな喪失感を味わうことになるのかもしれません。
そうなったら猫を家族として迎え入れようかしら。
ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)
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