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動画広告の「UX化」を真剣に考える時代かもしれない

コンテンツにおける動画の占める割合は、年々増加している。肌感覚でもそうだし、動画広告などはもう当たり前になっている。

伝統的なテレビ・映画などの動画に加えて、ウェブサイト上での動画コンテンツも増加して、動画業界内ではTVCM,WebCMといったような棲み分けまでされている状況だ。

そして、インターネット上の広告費は、ついにテレビ広告費を超えた。

肌感覚でもそうだろう。テレビ・新聞などのメディアはなくならないだろうが、もはやそれ自身が文化・歴史のたぐいになってきていると思う。

なんとなく番組表でテレビ局を選んでいたユーザーは、YouTube上で動画単位でコンテンツを視聴する(TVerとかも)。テレビのザッピングではなく、レコメンドやSNSで新発見する。Netflixで見たいものは、いつでも見れる。月9とか朝ドラという時間的拘束は、ただの障害でしかない。

こんな具合に、視聴者の行動変容はもっと進んでいくだろう。となると、その上に載る動画広告はもっと変容していくことは目に見えている。

15,30秒のTVCMから、6秒の動画広告も生まれた。YouTubeで動画を見たいのに、その前にCMを流されるときの気持ちは、テレビの「一旦CMです!」の気持ちと全く違う気持ちになる。

今までの動画広告クリエイティブの作り方は、根本から変わっていくと考えていくべきだと思う。私が考えるのは、動画広告クリエイティブのUX(顧客体験)化である。

UXってなんだろう?

元々ウェブ業界では、UXという言葉は当たり前に使われている。

ユーザーエクスペリエンスの略語で、顧客にあたえる体験のことを要素化した言葉だ。UXを改善しよう、UXを考えよう、などといった形で使われる。

動画広告クリエイティブにおいてのUXというのは、まだまだ考えられてないと個人的に思っている。

動画業界の現状

いままで漠然と、かっこいい!かわいい!すごい!で押し切っていたクリエイティブは、だんだんと趣味・趣向の世界になっていくと思う。

もちろんその良さは理解するけれど、スポンサーが動画広告として依頼しているのは「問題解決・課題解決」のツールとして、である。今は過渡期だが、特にコロナ以降の業界ではよりその色が強まると考えている。

なぜならインターネットの海に流すとき、そのデータは全部取得できる。どんぶり勘定的な世界は、もう通用しないルールなのだ。

よくある動画業界内の話として、「このCMで賞を狙っているから頑張ろう」「◯◯の映像はすごくこだわっていていいよね」というものがある。

私はこの手の話には正直興味がない。というより、考えるべき本質が違うと思っている。

あなたの作品づくりは、自分で金を貯めてすればいいのだ。広告づくりに自分の世界観をぶつけていいのは、それ自体を求められているときだけである。

その動画広告が、ある指標のもときちんと課題を解決したか。定量的・定性的に分析して、その後の舵取りを決めていく。船長が北に向かうといって向かう、海賊のようなノリはもうあまりいらない。それは作品づくりという海で楽しくやろう。

これからの動画広告クリエイティブは、よりUXを考えねばならない。要は受け手である視聴者の行動だ。

これには動画の知識だけではなく、幅広い文脈理解を必要とする作業だ。今の動画業界にいる人は、すごく面倒でストレスがある所作になるだろう。

なぜなら顧客体験を設計するのだ。動画広告だけでは終わらない、事前・事後の行動まで考えてあげねばならない。タレントと一緒にわーきゃーして、いい感じのクリエイティブにUXは宿らない。真剣に考えるべきときが来ているのではないだろうか。

なぜなら、世の中のあらゆるサービスは、インターネットと通じている。手のひらのスマホでなんでもできる時代がきた。

動画クリエイティブにおいて、その点を無視して突っ走ること自体、「作り手の老害化」のなにものでもない。

どうUX化するか?

これは自分でも考えている途中なので、体系的に断言できないのが本音だ。現時点で意識しているポイントだけ羅列する。

1.ペルソナに紐づくストーリー分析
2.各要素のトレンド分析と新結合(実写・トーン・テロップなど)
3.主体の人格化と「見られ方」の設計

こっち系の話はカタカナが多くなる。それしか適したワードがないのですみません。

1. ペルソナに紐づくストーリー分析

これは、いわゆるカスタマージャーニーと言われているものに近い。

今回で言えば、CMを見た人がどのような行動をし、広告主のサービスや商品までたどり着くのかを分析する手法である。

この手のたぐいは、動画クリエイターが嫌悪する話だ。俺らは関係ない、俺らの仕事ではない、と。しかし、もうそんな言い訳は通用しない。なぜなら動画が使われる場所は、もうテレビの16:9のスクリーンだけではないからだ。

むしろ、電車に乗ればスクリーンはあるし、駅のコンコースにはズラッと並ぶ。プロジェクターでどこにも投影できるし、ビルの壁面にもあるし、スマホにもある。

もはや、腰を据えて動画を見ましょう、という行動そのものが成り立たない時代。その時代に動画クリエイターしかできないことは、ペルソナに紐づくストーリー分析でないかと私は考えている。

動画屋なら絵コンテ(ストーリーボード)は日常的に描かれるし、見るだろう。どんな人が・どんなことを・どんな画角で撮るのか、ということを紙に落とし込む。この行為こそ、私達にしかできない特権ではないだろうか?

そのストーリー分析から導かれるのは、リアルな感情を持った生き生きとしたペルソナであり、日常から価値観まで連想することができる解像度を持ったペルソナだ。この手法は、マーケターよりも解像度が高いペルソナを導ける可能性があると思う。

そのペルソナに受け入れられる動画広告はなんだろう?という発想の起点。ある種のア・プリオリな絵コンテは、動画広告のUX化に一つの未来を示せると考えている。

2. 各要素のトレンド分析と新結合(実写・トーン・テロップなど)

動画広告において、トレンド分析は当たり前に行われている。しかし、私は各要素単位で行われるべきだと思う。

課題を感じるのは、広告主の文脈を紡がず、手法すべてをまるまるパクって主体やテーマをすげ替えていく動画広告が多いことだ。巷でよくある、バズればいいでしょ、的な発想である。

そこで獲得した”量”は、最終的にどこに着地するのだろうか。これからは、”質”を考える時代なのではないか?

リファレンスと呼ばれる、競合やその他の過去CMなどを参考に組み立てていくことが動画広告業界では通例だ。その利点は明らかで、納品して初めて目に見えるタイプの商品に金を払う場合、最も具体的に伝えられるのがリファレンスであるからだ。

今後私達が意識せねばいけないのは、リファレンス分析から導かれる新結合の部分。新しく要素をつなぎあわせて、オリジナルに仕立ててあげねばならない。

この作業はとても苦しい。なぜなら、動画だけ作っていると引き出しが狭くて考えが至らなくなる。最終的に、アナモルフィックレンズで、ALEXAで、ドリーとテクノクレーンで、ドローンでかっこよくしよう、という撮影・表現手法の話に流れていく。

その手前で考えるべきは、最終的にどんな要素の組み合わせがペルソナの世界に受け入れられ、どう受け止められるかを土台とした上で、自分たちなりの新しい要素の組み合わせ(新結合)を模索していくことだと思う。

動画広告のメリットとして、「曖昧さの包摂」があると私は考える。本来曖昧ではいけないことも、動画広告になると包摂されていく。静止画の連なりである動画広告は、それを許容できる。

どうしても包摂される「曖昧さ」の矛盾を極力消すために、私達はより日常の生活やコンテンツからいろいろなことを学ぶ必要があると思う。

撮影手法の勉強を悪いとは言わないが、小説を読んだり漫画を読んだり、お店にいったり、何かに没頭したりしたほうがよっぽど拡張性のある自力がつくと思う。

あらゆる人々はそれぞれの世界を生きているのだから、動画広告の作り手はなるべく多くの世界に触れたほうがいい。そうすれば当事者意識を持って、”新結合されたオリジナル”への評価ができる。

間違っても、「売れてるから・流行ってるから」という生半可な理由はつけてはいけない。自分の仕事ではないと逃げている場合ではない、あなたの仕事だ。

3. 主体の人格化と「見られ方」の設計

SNS時代に、私達の人格はアカウントやプロフィールなどでデジタル化され始めた。企業のアカウントもそうであるように、今後もこの流れは強まるだろう。

企業・ブランドと個人の差分がなくなっていくのである。この時代に必要なのは、広告主である主体の人格化だと思う。

具体的には、企業・ブランドの法人にしっかりとキャラクター的位置づけを与えることだ。すでにtwitterのアカウントでは「中の人」がそれをしているのは御存知の通り。

動画広告も無縁ではない。かつてタレントやセレブにのみに背負わせていた企業やブランドの人格性は、もっと主体自身に求められている。

この状況で私達は何をするべきか?それは今までの経験を生かして、企業・ブランドの主体そのものを演出してあげることではないだろうか。

企業やブランドを長期的なストーリーを紡いでいる主人公と設定し、その企業の過去・現在・未来においての世界を想像するということだ。そのアウトプットとしての動画があり、あるときは文字かもしれない。

企業の行動そのものがSNSでリアルタイムに共有され、価値判断に影響する昨今である。制作から放送まで2-3ヶ月以上かかるCMは、長期的な文脈のもとつくらないと価値がでないと思う。

だからこそ、私達にできることは、主体がどう見られるのか?どう見られたいのか?という「見られ方」の設計であり、実現したい未来に向けて一歩一歩伴走していくことが求められるのではと思う。

まとめ

動画広告のUX化とはなんだろう、と考えたときに、そもそも動画クリエイターについて根本から考え方を変えること・役割自体を再定義することが大切だろうと改めて思った。

広告がスポンサーの道具である以上、私達も世の中に合わせた最適解を勉強していかねばならない。

動画業界においては、タレントやセレブが仕事に関わることで、自分も有名になったと勘違いする”先生化”の現象はよく見られるが、きちんと基本に立ち返るタイミングかもしれない。

動画クリエイターしかできないことは、「見えないものを見えるものにすること」だと私は考えている。その手法と考え方の模索は、この仕事を続ける上で一生辞めてはいけないのだろう。



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