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『あかり。』 #11 ターンテーブルのふたり 相米慎二監督の思い出譚

アスファルトを引きずるように歩く下駄の音が、ふと聞こえるような気がするときがある。
もちろん空耳で、うしろを振り返っても誰もいない。
無性にさみしくなる。
相米監督とよく出かけた店々にいかなくなって、もうずいぶん経つ。
なんとなくだけど、足が遠のいてしまった。
だけど、そこで一緒に食べた旨い料理の数々は、舌が記憶している。


その日、僕は今でも覚えているのだが、ヘインズの白いパックTを着ていた。汗だくだった。
エキストラが50人から60人くらいいて、その動きを全部つけて、モニターの前で画面を確認して、ストップウオッチとコンテを握りしめていた。日差しがきつかった。


相米慎二監督の作る芝居は長くなる。(ワンシーン・ワンカット)
エキストラの人数が足りなくなる。動きをループさせれば、使いどころ次第でダブってしまう……。
メインの役者二人(中井貴一さんと藤谷美和子さん)をあまり待たせるわけにはいかない。
映画やドラマだと助監督が三人体制だが、CMは助監督がいない。制作部と協力して、なんとかしのいでいた。

ロケ場所は渋谷で、246号線と山手通りが交差する少し手前だった。そこのビルの駐車場のターンテーブルを借りていた。
オフィスビルの入り口は、バーニーズ・ニューヨーク風に美術部が飾っていた。

2回目の撮影になるので、俳優の二人もどこかリラックスして演じていた。
こちらは逆だ。
家具売り場というクローズドの場所からオープンに出た。それだけで、劇車が動いたり、エキストラがたくさんいるのだから。

ワンシーンを長く回せば、周囲の動きも長く作らなくてはいけなくなる。 その対応にひたすら追われた。

僕たちは未熟だったのだ。
ただ、ひたすら一生懸命ではあった。

監督はどうしていたかというと、役者たちと、他愛のない雑談をしながら時間をつぶしてくれていた。ようやく準備が整いかけ、リハーサルは始まった。

妻が夫に自分のことをどれくらい愛しているか人前で確認する……そんな内容だった。
リハーサルが始まり、こちらは劇車の見え方なんかも注意しながら、エキストラが動き出す。やはり、まったく人数が足りていない……。       監督は、そんなこと気にしない。俳優たちも気にしない。当たり前だ。
尺(=秒数)も相変わらずオーバーしっぱなしだ。
劇車の位置を10センチ動かすだけでも時間がかかる。クルマの撮影はめんどうなことが多いのだ。

僕たちはなんとかして画面を自然に見えるように埋めなければならなかった。ひとりをふたりに、カップルを別のカップルに、ビル内に入ったら服を脱ぎ捨て、別のルートで出てきて歩いて……そんなことを工夫しながらやっていたように思う。

映画の現場では当たり前のことが、CMの僕らにできないのは情けなかったので、とりあえずやれるだけやってみた。というより、やるしかなかった。監督はいっさいバックグラウンドの動きに注文しない。

相米監督は、ここでも藤谷美和子さんの<感じ>を引き出すために、言葉を尽くしていた。
「旦那をクルマから降ろしてみ」
「どうやって降ろすのよ?」
とか。

それは、駐車場から出したクルマを運転している夫(中井貴一さん)を運転から、自分へと優先順位を上げさせろという演出だ。夫(中井さん)が、思わずクルマを止めて降りるように仕向けなくてはいけない。
ただ、夫がクルマから降りて、妻のそばに行けばいいという<行動>ではないのだから面白い。コメディタッチの演技は中井さんの得意なところだ。
それを受けの芝居だけで成立させられるのが、監督が中井喜一さんを信頼する理由だと思う。

ああ、こうやって内面からアクション(演技)を作るんだ……そんなふうに感じたことを覚えている。

監督は、いつだってコンテに描いてあることに俳優を当てはめるのではなく、そこからいかに自由になれるかを演出していた。
結果、それはいったんコンテから遠く離れるのだけれど、最終的にはコンテを超えた場所に着地する。
それでいて、セリフを変えたりすることはまったくしない人だった。

そのとき、不思議なのはコンテをまるで他人事のように話すことだった。
CMだったからだろうか?

あとで、映画を撮るときのことをいろいろと根掘り葉掘り聞いたことがある。というか、いつも聞いていた。役得である。
監督はまるで他人事のような話にして、いろんなことを教えてくれた。

監督は主体を自分に置かない。

そんなことが薄々感じられた。

しかし、主体を自分に置かないなんて、監督をする人ができるのだろうか?

僕は、まだその頃は、それが不思議でならなかった。
『監督は自分のイメージをフィルムに焼き付けてこそ』なんて、まだ思っていたからだけど。

自我で撮っているようじゃ、浅いものしか撮れないんだな、と、わかったのは最近のことだ。

自我を捨てて、『そのとき映画が求めているものを撮る』そんなことができる監督は、いま、どれくらいいるのだろう。

なんだっていいんだ。

誰が考えたっていいだろ。

どうすんの?


やっぱり、ときどき、聞こえてくる。
たとえば、こんな暑い日は。
通りに風が吹き抜けた瞬間に。


いま、かぶっている麦わら帽子、きっと監督に横取りされるだろうな。
そんなことを考える。





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