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”労働” の耐えられない軽さ

現代を生きる私たちは、何にそんなに苦しんでいるのだろう。

労働だ、と私は思います。
これが、耐えられないほど軽いのですよ。
だから、人は重さのあるものを求めて彷徨うのです。
ちょっと何言ってるかわからないって?
では、ヘヴィ級 noterさんたちの重い重い言葉に耳を傾けてみましょうか。

「労働」の意味を再考したくなる時代に

古来「労働とは何か」を哲人や宗教家、 経済学者や社会学者などがいろいろ定義していますが、どれも単に役に立たないか、難解すぎてよくわからないかのどちらかです。

現代では、『Bullshit Jobs』を書いた David Graeber という人類学者がいますが、昨年 59歳の若さでこの世を去りました。

”クソどうでもいい仕事” を私もずーっとしてきました。
この本の内容と同じことを 20年以上前から主張してもきました。
自分のやっている仕事をクソだと知りながら、20年以上もやり続け、しかもお金までいただいてきたのです。
よく発狂せずに生きてこれたな、と思いますよ。

たった今も・・・
上司から「S社が上場準備してるから、資料作成プリーズ」と依頼されて、クソどうでもいいな、と思っています。
部下に「S社との過去 3年の取引実績を表にしてプリーズ」と依頼しながら、クソどうでもいい仕事させちゃってゴメンね、と心の中で言っています。
私は、クソどうでもいい投資家向けに、クソどうでもいい S社とのクソどうでもいい事業提携概要を、クソどうでもいいパワーポイントにお絵描きしています。

何もかもが軽すぎる・・・。
そこには、好きなことも、楽しいことも、挑戦しがいのあることも、何一つありません。
なんと耐えがたい、無意味と、空虚と、軽さだろう。

もともと、労働とは重いものだったと思います。
それが、技術の進歩なのか情報化社会のせいなのかよくわからない(それはこの際どーでもいい)けれど、異常なくらい軽くなった。
軽くなったら、新しい飯の種に目敏い輩どもがやりがいとか自己実現とか、成長とか能力の発揮とか言い出して、無理やり意味や意義を付与してきた。
それに騙されなかった者は、いち早くブルシットに気づいていた。
騙されていた者は、今ようやく呪いが解けて、再び労働の意味を失っているか、次の呪いを探して溺れそうになっている。
そこへまた、マネタイズだの、フリーランスだの、パラレルワークだのと、新たな呪いの言葉を引っ提げた連中がイキイキと語りかけてくる。

今こそ、「労働とは何か」を再考してみませんか?
自己啓発屋さんのノウハウ本やお節介トークではなく。
あなた自身の知性と感性と、心で語る noterさんたちの言葉を借りて。

いろいろ気づいちゃってる noterさんたちの告白

7人の noterさんの記事からの抜粋を、続けて紹介します。
抜粋はしましたが、言葉は原文のままです。
サラッと読めるような生易しいシロモノではありません。
一語一句噛みしめるように読んでみてください。
あなたの心にもグシグシ刺さるはずです。

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短期派遣の電話予約対応業務に疲れ果て、速攻やめたくなり、何もやりたくないぐったりした状態になってしまった女性。

しごとってしなきゃいけないの?
人に決められたルールを守って仕事をすることや、仕事が終わっても(仕事がないのに)勤務時間を決められてその場にいないといけないことが、もう意味がわからなさ過ぎて受け入れられないのだ
というかもう頑張るということ自体が無理になってしまったかもしれない

みんなに問いたい
『そんなに頑張らなあかん?』

これからは与えられた仕事をする時代から、自分で何をするか考えたり、見つけたりしてそれを価値に変える時代がやってくるのではないかと思う
そう思うと仕事という概念はいつかなくなり、残りの人生でなにをして生きていくのが自分にとってしあわせなのかということに最終行き着く

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実家でも、日本の企業でも、色々な「当たり前」に染まっていたなあ、と振り返る、脱サラした博士課程の大学院生。

「社会人」って何?ってことなんですよ。
その言葉の裏には、学生時代と、働き出してからは違う世界だよ、といういかにも日本らしい考え方があるのです。
かく言う私も、大学時代はそういう考えでした。
なので当たり前に就職しました。
そして、「社会人」になりました。
でも、本当は、そんな垣根は「当たり前」であってはならない。
いつだって学んだらいいし、いつだって働いたらいい。
そんな線引きするから苦しくなるんです。

気づかないうちに、あなたもたくさんの当たり前に囲まれて生きています。
それに気づいて、それって本当にそれでいいんだろうか?と疑うと、自分が知らず知らずに持っている凝り固まった考えから脱出できるんです。

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毎日安定した固定給の仕事をする日々に強い焦燥感を覚え、「人生に投資したいから」という理由で、年収 1,000万円から無職になってみた男性。

仕事は安定し、高給で恵まれた環境にあった。
しかし毎日苦悩し、日々の人生に悩みを抱えていた。
本当にこんなことをしていていいのか?やりたいことはたくさんあるはずじゃないのか?なぜできていない?いつやるのか?
自己疑問は尽きなかった。

時間は限られている。
自分は 30代前半だ。残りの人生は、長いようで短い。
ましてや、活動余力が溢れている残りの人生期間は、本当に短い。
やりたいことをやるために、自分で生きていくと、今決めるべきだと気づいた。
自分の価値を高めるため、学びを得るため、経験を得るため。
そのために投資する。

人生にとって最も価値あることは何か。
人によってそれは起業かもしれない、アーティスト、世界旅行かもしれないし、社会をより良くする変革を起こすことかもしれない。
絵を描き、文章を書き、自己表現をすることで人生に価値を見出すのであれば、それが人生を歩む上で最も生きがいを生み出してくれる。

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昔からこれと言った趣味がなく、そのことがコンプレックス。趣味探しは面倒。でも趣味を持つ人への憧れは消えない、と悩む駐妻さん。

海外駐在する夫についていくため仕事もやめた。現地に友達もいない。そんな今の私の至極の時間といえば週末、旦那が子供を連れ出してくれてるあいだ、部屋で1人でグータラすること!
グータラって趣味?
それ趣味って言っちゃっていいの?

帯同で無職、コロナ禍の恩恵もあり、時間だけはたっぷりある。これを機に、自分の好きなものと向き合って、好きなものを素直に好きと言える、そんな気持ちを呼び覚ましたい。
私が楽しいと感じるときはこんなとき。
●音楽に触れている時間
●笑ってる時間
●書いている時間

好きだから書く。
1円も儲からないのに文章書く必要あるか?
でも、書くのが楽しいから、書くことにした。
シンプルにそれだけ。

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充実しててもなんとなく満たされていない、幸せなのに空しい気持ちになったりする、ヨーロッパで事業を経営する女性。

こんないい生活が出来ているのに何がそんなに不満なのかじっくり考えてみたところ。
こんな生活に慣れてしまったんじゃないか?
という答えに辿り着きました。

今やっている仕事がお金をもらえなくてもやりたい事か?
結構ズバリとくる問題点がこの仕事が好きか?という点。
好きっちゃ好きなんですけどね。色々と楽しい事もあるし。でもお金がもらえなくてもこの仕事するかと聞かれると迷います。

起業とか、出張とか、国際結婚とか、昔の「刺激」自体が刺激的じゃなくなって来たのかなって思います。
自分の会社で仕事もうまく行っている、でもそれに若干飽きと疲労を感じている。
同じ仕事をしていると段々と慣れてしまって「よくやった自分!」というよりは「また出来た。でもそれは当たり前」になってしまいます。
楽すぎて苦がないから楽しさが無くなった。

この対処法として 2種類あると考えました。
1) 慣れてしまった現状はともかく、それもそれで良いと捉え、慣れた状態に慣れる。
2) 自分の comfort zone から出るような新しいことに挑戦してまた刺激を求める。

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デンマークのフォルケホイスコーレから帰国して 1年、日本の慌ただしすぎる生活に翻弄され、せっかく得られた考えや望ましいと思う行動をとれず、生活のリズムが崩れて考える時間もなくなってしまった、と内省する男性。

自分が嫌いになるという感情に対処する術。日本では前を向いて進めという。デンマークではどうだろう。感情を含めて自分を観察するのではないか。自分の人生というものを自分で作っていくという意識の中では、客観的に自分を見る自分が育てられている。客観的な自分が自分の感情を観察し、これからどのような行動を起こすべきかを考えるのだ。

どちらにも言えることは、一人ひとりは弱い人間だから互いに支え合うための言葉が用意されていることだ。日本では「感謝」デンマークでは「平等」だ。自分は支えられて生かされている。だから感謝である。また自分は精一杯やっているし、他人も同じ一つの人生を背負って頑張っている。だから平等だ。人と人とのつながりが一人の人生を満たしてくれることをどちらもちゃんと示していたのだ。

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ある出来事をきっかけに、ある日突然仕事ができなくなり、休職している女性。なにもやっていないことに罪悪感を感じてモヤモヤし、考えて考えて、わたし、なにかしなくちゃいけないんだっけ?と気づいたそうです。

なにかしなくちゃってなにかに追われていた時期があった。今もときどき焦っている。
あれだけ切望していた何もしなくていい時間がこんなにあるのに、何しよう、と思いながら朝日が昇るのを眺め、ああ、また1日終わった、と暮れていく夕日を見送る日々に「このままでいいんだっけ?」と不安にもなる。
だけど。
なにもしたくなくて休んだんじゃなかったっけ。休みなんだからどうどうと休めばいいんじゃなかった?

社会で役に立つ人間になるために勉強して、社会に出たら出たで、常に経済社会の一員として生産効率だけを求められ、それに応えるだけの人材になる。
転んだりすべったり穴におっこちたりしながら、たちあがったり振り返ったり走り出したりするほうが、まあ傷だらけにはなるけど傷そのものが勲章だって誇れる人生になるかもしれない。

何かしている=充実している=幸せ
だと思い込んでいた。
生産か消費をしていることが幸福の尺度になっていた。
「なにもしなくていい幸せ」をわたしはずーっと見落としていたのかもしれない。休職して初めて気がついた。

耐えられる重さのあるものとは?

労働に重さを感じている人は、その重さの正体が何なのか、考えてみたことがありますか?

私の場合、それは常に人間関係でした。
それは、ときに人生を面白くしてくれましたが、重~い憂鬱の種でもありました。壊れた上司、意地悪な同僚、残念な部下、ムチャを言う顧客。
あるとき、重さの元凶に気づいた私は、それらの厄介な人間たちから自由になる生き方を模索し始めました。相手にするのをやめたんです。

労働から人間関係を取り除いてみたら、軽作業しか残りませんでした。
こうして私は、労働の耐えられない軽さを知りました。

人生の時間の 3分の1を労働に費やすのだから、楽しくやらなきゃ損!みたいなことを言う人がいます。
たしかに!とか思ってしまいがちですが、ちょっと考えてみてくださいよ。
歯医者が大嫌いな人に、歯の治療も楽しまなきゃ損!って言いますか?
歯医者に行かなくてすむように、歯を健康に保つのが先決でしょ。

楽しめないものを、無理やり楽しもうと自分を偽るのはもうやめましょう。

いろいろ気づいちゃってる、七人の侍、じゃなくて 7人の noterさんの記事は、私の背中にそっと手を当ててくれました。
「わかりますよ」と。
労働の耐えられない軽さに気づいている ”侍” だからでしょうか。
私はその手の感触にこそ重さを感じます。

労働の耐えられない軽さを知るツワモノたちは、耐えられる重さのあるモノやコトを持っています。他の記事にちゃんと書かれていました。
それらはやっぱり、人でした。

労働やそこでの人間関係からくる重苦しさとは全く異質の、内的に結ばれた人との関係が与えてくれるここちよい重み。
こうあるべきという規範やルールもなく、力や支配もなく、ひたすら内発的で私的な、安心感とでもいうんでしょうかね。心は軽いのに中身は充実して重い、残りの人生を耐えられるもののようです。

自分の存在は耐えられる重さであってほしいですよね。