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『人類堆肥化計画』

先日、弱冠21年の人生で初めての本格的な農作業を体験した。
場所は北海道、長さは丸4日間。

期間は短い上、涼しさの残る時期だったため、農業初体験にはちょうど良く優しいものだった。
農業について新鮮な学びを得て、これからもっと知りたいと感じた次第である。


ところで、農園の人々に交じり収穫にいそしみつつも、頭の中では以前読んだエッセイのことが蘇っていた。

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東千茅さんの、『人類堆肥化計画』だ。

書店で手に取ったとき、まず奇抜なタイトルに目がいった。
パラパラめくって見ると四季の自然の描写が美しく、魅了されて購入した。

このエッセイを読み始めた時、ちょうど私の頭の中では「人間や生命の本質は何なのか」という問いがぐるぐる回っていた。

そんなところに、この『人類堆肥化計画』は私に一発痛快なパンチを喰らわせてきた。


著者の東さんは、24歳にして奈良県宇陀市大宇陀へ移り住み、里山生活を開始した。
本書は、その里山での多種多様な生き物たちや、命の折り重なる堆肥を取上げながら、生というものについて独特の切り口から記される。

まず印象的なのは、「農耕を営みつつ里山で生きる」という行為に対して世間一般が持つ清廉なイメージを一蹴するところだ。
食い食われ、利用していると思っては利用される。
これこそが里山に生きる生命のリアルで、東さんは貪欲と悪行の横行だと表現している。

里山は都会よりよっぽど不埒だと言えるだろう。
里山を牧歌的なおとぎの国か何かだと勘違いしている連中は、己の欲のまずしさを抱きしめて出家でもしておくが良い。
里山は、歪で禍々しい不定形の怪物なのだ。
食い物にされている私は里山の胃袋の中にいる。

自然の中で生きるということは、
いわば生を受けてしまったもの同士の足の引っ張り合いであり、ズブズブの依存関係なのである。

私が稲のために用意した水田には、水草や水生昆虫やオタマジャクシや
アカハライモリたちも棲みつく。
早い話が、フリーライダーたちである。

この視点は、人間をあくまで多種との依存関係との間でしか生きられない生物だと捉えることから生まれる。
土を這い、甘い密を吸いながら生きる一介の哺乳類としての人間だ。

人間は実に勝手に美化した論を立て、それをこねくり回したがる。
結局何をしようとも他者・異種への破壊と蹂躙のループからは逃れることができないのにも関わらず、だ。

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一方著者は人間と異なる種の者たちに対し、上からも下からも見ない。
或いは清いものにも汚れたものという見方でもない、あくまでフラットな
立ち位置にいる。

この『人類堆肥化計画』の中で、人間という一つの生物の生を若干ひねくれつつも、ひょうひょうと語っている。

農業に興味のある人にも、都会の生活に疲れた人にも、一度読んで欲しい。
良い意味で心をかき乱されると思う。

おもねることない、秀逸で痛快な東さんの言葉選びも素敵だ。







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