東樫/千茅

[Azuma, Kashi(Chigaya)] 里山制作団体つち式代表、全日本棍棒協会…

東樫/千茅

[Azuma, Kashi(Chigaya)] 里山制作団体つち式代表、全日本棍棒協会会長、棍棒飛ばしチーム大宇陀神殴仏s主将。著書に『つち式 二〇一七』、『人類堆肥化計画』、「つち式 二〇二〇』、『棍棒入門』。

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タバコ代を稼ぎたい

 noteをはじめる。  わたしは名を東千茅(あづまちがや)という。1991年生まれ、男。2015年に大阪から奈良県宇陀市に移り住んで、ほなみちゃん(稲)・ひだぎゅう(大豆)・ニック(鶏)たちとともに里山生活をおくっている。その生活の模様を『つち式』という雑誌にまとめて自費出版してもいる。  自己紹介としては以上のように言うしかないのだが、おそらく世間一般の目からみれば不可解であろう。肩書きらしい肩書きもない。しいていえば「里山に生息するホモ・サピエンス」、より社会的には「

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    • 棍棒最高ピエエエエエエエエエイ

       大棍棒展が大盛況のうちに終わった。それ自体は喜ばしいことである。だが、会場では「なぜ棍棒を作ろうと思ったのですか?」というような質問を幾度となく浴びた。毎回わたしは、嘘ではないものの自分自身としては釈然としない理由を口籠もりながら答えた。「昔から畑の杭を打つために簡単な棍棒は作っていて」「少し前から木を切る仕事を始めて色んな木が手に入るようなって」云々、等々。なるべくありえそうな、聞き手が納得できそうな要素を記憶の中から引っ張り出してきた。なぜなら、もしわたしが「それが最高

      • 『つち式』を買おう

        「ぼくは断言する、ぼくがしたことは、どんな動物もなしえなかったはずだ」 ——サン=テグジュペリ『人間の土地』  去る二月某日、『つち式 二〇二〇』(以下『二〇二〇』)を刊行したのだが、それについてnoteには何も書いていなかった。というのも、刊行前からのこのふた月ほどは、宣伝にさして力を入れなくても多くの注文をいただけたからだ。そして今回これを書くのは、注文が落ち着いてきたからだ。わたしにはこの雑誌にもっと売れてもらわなければ困る理由が、大いにある。  『つち式』は、わた

        • 『人類堆肥化計画』出版後の雑感

           『人類堆肥化計画』関連のイベントが、先日の心斎橋PARCOでのトークイベントで一段落した。やれやれだ。次は二月までない。  商業出版に著者として関わるというのは貴重で新鮮な経験ではあるものの、そうして垣間見ることになった本を取り巻くあまりに人-間的挙動の数々(自分のを含む)には、ひどく疲れさせられる。本を出せて本当によかったとは何度言っても足りないが、いわゆる物書きには絶対になりたくないと決意を新たにする日々である。  出版業界が苦しいとはいえ、本を出版するという出来事には

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        タバコ代を稼ぎたい

          人類堆肥化計画は始まったばかりだ

           前回の更新から一年以上も経ってしまった。  それというのも、前回記事で予告した吉村萬壱さんとの対談の後、それをもとにした本を書く話をいただき、執筆に専念していたからだ。「執筆に専念」——かっこつけた物言いだが、もうほんとうに必死だった。本を書いている間は本以外のものを書く気になれなかったし、そんな暇や余力があるなら、その分を本に回してより良いものを書きたいと思っていた。本を書くのは初めてだったから、余裕が全くなかったのである。  もちろん「執筆に専念」といっても、生きていく

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          人類堆肥化計画にむけて

           来たる8月17日(土)夜、大阪豊中のblackbird booksにて、小説家 吉村萬壱さんとトークイベントを開催する。 人類堆肥化計画 ——悦ばしい腐敗、土になりうる人間  これがそのタイトルだ。僭越ながら、わたしから対談相手の吉村さん、店主の吉川さんに提案させていただいた。  隠しようもないが、無論これは『新世紀エヴァンゲリオン』の中の「人類補完計画」をもじったものだ。いかにも仰々しく出オチ感が漂っているし、お前それ言いたかっただけやろという批判は甘んじて受ける

          人類堆肥化計画にむけて

          真夏に生きなおす

           来たる8/4(日)、京都は恵文社一乗寺店にて『微花』×『つち式』合同でトークイベントを開催する。 「開かれてある世界に生きなおす」  これがそのタイトルだ。この一節は、わたしがかつて『微花』に寄せた文章から採ったものである。  その記事でわたしは、まさに微花は「開かれてある世界に生きなおす」きっかけを読者にもたらすものだ、と書いた。少なくともわたしにとっての微花は、自分が里山生活に向かう動機であったところの、「生きなおす」というある種の決意の根源を再確認させてくれる

          真夏に生きなおす

          日記 昼寝の季節

           七月一日をもって田植えを完了した。二日頃から「半夏生」であるが、それまでに田植えを了う習わしだ。なんでも、これ以後に植えても収量が少ないという。だからそれを念頭に毎年奮闘する。今年も辛々なしおえた。  森下さん曰く、むかし百姓は半夏生から昼寝を解禁したそうだ。田植えが済み、梅雨が明けかけ、気温が高まる時節であるから、道理にかなった慣習といえよう。そうしてこの頃、この辺では「田休み」という慰労の宴会を各村で催したという。  ここ数日わたしは、田植えのために放ったらかした仕事に

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          日記 生きられる水田

           ほなみ(わが稲の愛称)、薊(アザミ)、中条あやみ、奇しくもわたしの好きなものの名前は「み」で終わる(もう一人いるがここには書かない)。偶然の一致にすぎないのだろうが、もしかすると無意識に「み」終わりのものに惹かれる気質なのかもしれない。もっとも、そんなことはどうでもいい。  さて、書きたいことがたてつづけに二つ起こった。衝撃的なほうから書く。  なんとわが棚田にニホンアカガエルがいたのだ。今まで田んぼで見る蛙といえば、トノサマガエル、ツチガエル、アマガエルが多く、たまに

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          日記 悦びの騒擾/相乗

           気温が上がってきて、暦の上でも夏に入り、野良仕事が本格化してきた。最近は、草刈りや畦塗りや夏野菜の播種に追われている。  作業をしていると、バッタ類の幼虫やカエルたちによく出くわすようになった。ゆくゆく大きくなれば彼らには、わが愛しのニックたち(鶏)の餌になってもらう。つまり、彼らの存在はそのままでも歓ばしいのだが、彼らを食べるニックたちを食べる悦びの予祝としても、わたしには余計に歓ばしいのである。  カラスノエンドウやキンポウゲやハルジオン(ヒメジョオンかもしれない)が

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          東京遠征を終えて 土と肉と宇宙の祝祭

           4/6〜9の東京遠征が終わった。充実した三泊四日であった。かんたんに感想を書いておきたい。  六日、東京に降り立つ。本屋B&Bさんでの辻村伸雄さん片山博文さんとのトークライブは、50名近くの方々にお集まりいただき、盛況のうちに終えることができた。辻村さんのビッグヒストリー、片山さんの宇宙的コモンズ論のお話が素晴らしく、おまけに『つち式 二〇一七』が30冊ほども売れた。これ以上ない形で「東京デビュー」を飾ることができ、ウハウハな気分でよく眠れた。(上の写真は片山さんのスライ

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          東京遠征へ向けて 二百年の祭りの前に

           東京遠征が迫ってきた。今週末から四日間滞在するあいだ、4/6にトークライブ、4/8に研究会発表を行う。いずれも「つち式」関連だ。それにあたり、ここに所感を述べておきたい。  現在『つち式 二〇一七』は、おかげさまでほぼ完売という状況だ。東京に行って帰ってきたらなくなっているだろう。本誌は「異種たちの存在を身近に感受し歓喜し共に喰らいあいながら生きる文化を目指したい」というような主旨の本である。自信がなかったわけではないが、それでも、よくこれだけニッチな雑誌が売れたと思う。

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          日記 言葉の精進/焼尽

           おのれの貧弱な脳みそを棚に上げて、言葉への悪質クレーマーになってみようか。『つち式』を出しておきながらこんなことをいうのは不届きであるが、わたしはずっと言葉への不信感を拭えないでいる。こんなものが何の役に立つというのか。わたしは物書きではないし、まして研究者でもなく、ただの農耕者である(農業者ではない)。言葉は食えもしなければ着れもしない。陽射しや春の訪れのように素朴な感激を届けてくれるわけでもない。にもかかわらず、どこかから俺の頭の中にやって来て、我が物顔で巣くってやがる

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          ひだぎゅう味噌

           プロフィールにあるように、わたしは、稲に「ほなみちゃん」、大豆に「ひだぎゅう」、鶏に「ニック」と名前を付けている。  しかし、この内ひだぎゅうは最近になって名付けたもので、『つち式 二〇一七』には書いていない。  『つち式』では、「米、大豆、鶏卵」という記事でこの三つがわたしにとって最も大切な自給物だと書きながら、あまつさえ、「ほなみちゃん」「ニックたち」という記事は収録したにもかかわらず、大豆だけは名付けていないためにノりきれず単体で記事にするには至らなかった。一般名で

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          日記 肉が来た

          二月十一日 曇り  わたしはニックたちを飼っている。が、ときどき、わたしは彼らに飼わされてもいるのではないかと思うことがある。 ——『つち式 二〇一七』33頁  わがニックたち(名古屋コーチン)にあたらしい仲間ができた。軍鶏の雌一羽と烏骨鶏のつがいを貰ってきたのだ。  もっとも、もとからいたコーチンらは新参者たちを仲間とは思っていないだろう。彼らにしてみれば、平和な暮らしを乱す闖入者といったところか。しかも、烏骨鶏はともかく、軍鶏はかつて闘鶏に用いられた気性の荒い鶏種

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          日記 春にやられる

          二月五日 快晴  立春。そう聞くだけで、わたしの冷たい心もおだやかに解けてしまう。このねじくれた性根をもってしても、仮借ないやさしさを前に為すすべはない。春の魔力。アイデンティティの危機。  しかも快晴ときた。こんな春の日は、ふだんは聴かないような柔和な音楽さえも楽しめてしまう。  初春にしては暑すぎるきょうも、休耕田復活作業をすすめた。  法面の下にあらたに畦をこしらえた(黒い部分)。ひたすら土を積むのである。  こうした盛り土を枕畝(まくらうね)というそうだ。枕畝は

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