ひだぎゅう味噌
プロフィールにあるように、わたしは、稲に「ほなみちゃん」、大豆に「ひだぎゅう」、鶏に「ニック」と名前を付けている。
しかし、この内ひだぎゅうは最近になって名付けたもので、『つち式 二〇一七』には書いていない。
『つち式』では、「米、大豆、鶏卵」という記事でこの三つがわたしにとって最も大切な自給物だと書きながら、あまつさえ、「ほなみちゃん」「ニックたち」という記事は収録したにもかかわらず、大豆だけは名付けていないためにノりきれず単体で記事にするには至らなかった。一般名ではない呼称は、それほどまでに重要なのだ。
考案すべきと思いながら、結局名付けたのは創刊から五ヶ月ほども経った頃のことである。名付けの材料がないものかと、ウィキペディアの「ダイズ」ページを読んでいたら、いいのがあった。
そんなくだらない由来かと言われれば返す言葉もないが、なかなか気に入っている。もちろん「ひだぎゅう」は飛騨牛のパロディーでもある。
バカバカしい名前でもそうと決めれば、途端に大豆がより近しいものに感じられるから不思議だ。大豆は毎年作っているから見慣れたものだが、ひだぎゅうと名付けてからの大豆はそれまでとは違って見える。
しかし、考えてみれば、名付けは親しみを喚起する基本中の基本である。たとえば飼い犬に名前を付けず、ただ「犬」と呼んでいては滑稽だし、親しさがないように感じられる。大豆にも名前を付ければより親しくなるのは、けだし当たり前のことではないか。
それでも、犬猫やその他の動物を飼う際に名前を付けることは一般に行われているのに、窓辺の観葉植物や庭の植木に名前が付けられることが格段に少ないのはなぜか。人間にとって動物と植物とのあいだには大きな隔たりがあるようだ。が、まあそれはいい。
去る二月十七日、友人がわがひだぎゅうを使った味噌作りイベントを開いた。盛況で、ひだぎゅうの晴れ姿を見ながらわたしはうれしかった。以前提案した「ひだぎゅう味噌をつくろう!」という惹句は却下されたが、まあそれはいい。
ひだぎゅうとわたしは生存上のグル(共犯)であり、彼らはほなみちゃんに次ぐ重要なわたしの食糧でもあるから、彼らを他人に提供するのは異例のことである。今回は、以前作った味噌が十分残っていることに鑑みての判断だった。
ともあれ、こうしてひだぎゅうが、わたし以外の人間にも自身を食べさせることで、味をしめた者たちにも自身を広く育てさせようとしていると見ることもできる。ひだぎゅうもなかなかに強かなやつだと、共犯としてわたしは頼もしく思うのである。
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