日記 春にやられる
二月五日
快晴
立春。そう聞くだけで、わたしの冷たい心もおだやかに解けてしまう。このねじくれた性根をもってしても、仮借ないやさしさを前に為すすべはない。春の魔力。アイデンティティの危機。
しかも快晴ときた。こんな春の日は、ふだんは聴かないような柔和な音楽さえも楽しめてしまう。
初春にしては暑すぎるきょうも、休耕田復活作業をすすめた。
法面の下にあらたに畦をこしらえた(黒い部分)。ひたすら土を積むのである。
こうした盛り土を枕畝(まくらうね)というそうだ。枕畝はふつう、田を畠に転用する際、水の流入および滞留をふせぐ目的で作られる。
ここは逆に畠を田に戻そうとしている土地だが、その目的は同様だ。この土地には、山からの水が少量ではあるものの法面をつたって常に流入している。田んぼとはいえ、水を入れないときには乾いてもらいたい。理由のひとつをいえば、裏作に栽培可能な作物(麦やエンドウやソラマメなど)はどれも湛水の必要がないどころか、水の滞留をきらうからである。
それにしても、こうして土の上に線を刻むことにはやはり、筋肉と脳みそとをつかう純粋な工作の愉悦と、「自然のうちに人工してやった(*1)」といういくらか背徳的な愉悦がある。
土と水と天気を相手に、相談し、格闘し、懐柔し、歎願しながら、和解してゆくのがおもしろい。 ――『つち式 二〇一七』15頁
何かを征服せんとする暴力の行使にともなう悦びは否定しがたい。 ――「征服の反復としての里山生活」
そうして、この枕畝敷設によって副次的にできた水たまりには、あたたかくなれば蛙めらが卵を産みにくるのだろうし、アカハライモリたちがそれに頭をつっこんで貪るのだろう。そのさまを、わたしは目をほそめて見つめるのだろう。
いかにも、これは『つち式』にも書いたことだ。思えば、わたしは同じことばかりを言っている。
だが、最高なことは何度起こってくれてもかまわない。最高なことは何度でも享受するにあたいする。わたしは今後も、ただの最高なことをくりかえし為し、くりかえし味わい、くりかえし語っていくだろう。至福の反復だ。毎年やってくる春のように。
*1 『つち式 二〇一七』15頁
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