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人類堆肥化計画は始まったばかりだ

 前回の更新から一年以上も経ってしまった。
 それというのも、前回記事で予告した吉村萬壱さんとの対談の後、それをもとにした本を書く話をいただき、執筆に専念していたからだ。「執筆に専念」——かっこつけた物言いだが、もうほんとうに必死だった。本を書いている間は本以外のものを書く気になれなかったし、そんな暇や余力があるなら、その分を本に回してより良いものを書きたいと思っていた。本を書くのは初めてだったから、余裕が全くなかったのである。
 もちろん「執筆に専念」といっても、生きていく以上は最低限の賃労働や野良仕事をしなければならない。ただ、何をしている時でも、つねに頭の中では本のことを考えつづけていた。たとえば仕事中に、書きあぐねていた箇所を打開できそうな言葉やアイデアを思いついて、とっさにiPhoneにメモしたことは一度や二度ではない。そして家に帰ればパソコンに続きを書く、という繰り返しだった。この経験は、終わってみれば苦くも甘い思い出と感じられるものの、渦中にいる間は重い何かがつねに身体にのしかかっているように感じられた。
 執筆を開始したのが昨年九月で、原稿を一応揃えたのが今年五月、それから推敲や校正が完了したのは八月末である。丸一年かかったようなものだ。終わってからしばらくは、背負っていた重荷を下ろした時に似た虚脱感があった。する事がなくなって、暇に感じられもしたくらいだ。
 ともかく、そうして『人類堆肥化計画』はできあがった(発売は十月末)。

 ——と、なにかえらく大層なものを書いたような口ぶりだが、文字数にして10万字程度、ページ数にして二六〇頁足らずの本である。また、題名と表紙からも見てとれるごとく不穏で攻撃的な本ではあるが、生まれ堕ちた身として切実な問いに真っ向から挑みつつ、おもしろく書いたつもりである。だからぜひ読んでいただきたい。

 それにしても、わたしにとって「終わった」この本がまだ出版されておらず、十月末に発売されてからやっと世間的に「始まる」ことには、妙な気分にさせられる。おそらく、今はまだ徐々に冷めゆく熱の中で冷静になれないけれども、もう一ヶ月後くらいには自分が書いた内容について後悔しだすだろう。その頃に出版されるのだ。そのことが少し気がかりではあるものの、どんな石が投げかえされてくるかが愉しみでもある。
 とはいえ『人類堆肥化計画』という本は、進行中の計画をテキスト化したものにすぎない。小賢しくもヒトは言葉を使う動物であるから、その言葉によってヒトを部分的に堆肥化することはできる。だが、やはり堆肥化は多く土の上で為されるものだ。本を書き終えたからといって、人類堆肥化計画に終わりなどない。

 また、本計画を推し進めるべく、里山制作団体「つち式」を作り、突貫でウェブサイトも作った。今後つち式の活動はこちらで報告していく。

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