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パンクと救いようのない自己分析

先日サークルの先輩が、パンクについて語っていた。

話の発端は日本の3ピースバンド「羊文学」で、確かこんなことを言った。

「羊文学の音楽の、上手に生きて輝きたいけどできない、日向で生きるキラキラした人達のようになりたいけれど日陰から抜け出せない感じがとても好き。その精神性に私はパンクを感じる!!」

(それなりに酔っていたので表現が荒いのはご愛嬌。決してディスっているわけではないのです。)

パンクミュージックというのは、大方英語詞の速くて騒がしい曲だというイメージを持たれがちかもしれない。しかし、パンクとはなんぞやという議論でよく唱えられるように、反骨精神であったり「自分らしく自由に生きる」態度がパンクの本質なのである。形ではなく精神的なあり方がパンクをパンクたらしめる。そのパッションを先輩はこのバンドの音楽に感じ取ったのだろう。

自分もパンクは好きで、音楽好きになったルーツにはパンクがあると言ってもいい程だ。中高時代は夢中で日本のパンクロックを聴いていた。
色んなジャンルを聴くようになった今でも、やはりパンクが好きでいる。
そんなわけでこの発言を聞いたとき、なるほどと思ったのである。

そして「日陰から抜け出せない」という感覚がひどく自分の中に共鳴した。それは最近になって気付いた、なぜパンクを聴くのかという問いの答えに近かったからだ。

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中高時代とパンク

中高時代、私はとにかくパンクが好きだった。
聴いていたのは日本のバンドばかりで、初めて聴いたのは兄がTSUTAYAでレンタルしてきた Ken Yokoyama の『Four』だった。
その時の得体の知れない興奮は今でも覚えている。

パンク入門したての頃は歌詞の意味も分からず、メロディーの疾走感と英語詞のかっこよさにただ惹かれていた。次第に聞き取れるようになって意味が分かるようになってからは、抵抗する姿勢だとか媚びない態度にもかっこいいと感じるようになった。

一方それに増して、周りの友人達が聴かない音楽を聴いていることへの優越感があったことも覚えている。
中高の6年間通った学校は勉強と部活を完全両立させることが理想とされる所だったため、クリエイティビティを開花させたり、何かしらのカルチャーに極度に傾倒したりというような人は少なかったように思う。当の私は漏れなく部活・勉強漬けの生活をしつつも、少ない時間をパンクに始まり生活領域の友人達と共有しづらいカルチャーに注いでいた。お陰様で偏屈な気質が育まれてしまい、クラスや周りの人達と若干の距離を感じていた記憶がある。
そんな調子で当時の私はパンクを聴くことで「我が道を行く」ことのかっこよさを感じていたように思う。

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しかし大学に入り19、20になると、自分の中の奥底にあった意識したことの無い動機に私は気付いた。


最近になって気付いた、パンク好きの心理

一言で言えば、それはコンプレックスだった。

コンプレックスというのは容姿はもちろん、口下手な所など、挙げ始めるときりが無いのだが要するに劣等感だ。
高校を卒業し、大学で自由の効く生活に慣れてからそれを実体として感じるようになったように思う。既に中学の半ばから、特に高校の頃に明らかにそれはあったのだけど、客観的に気付き言語化できるまでには至らなかった。

抱えていたコンプレックスは気付かないうちに積もって行き、自分の中に暗い領域を作り出していた。簡単に言えばそれは自信のなさだった。周りの友人達と合わないカルチャーを摂取し始めたのも、自信のなさの裏返しだったように思う。

そしてその埋め合わせとして、私はパンクを聴くようになった

当時、何かしら創作物に没頭していたらまた違ったものの考え方が出来ていたのかもしれないとも思う。だが私にはそれにふけるという選択肢を思いつきもしなかった。そのためコンプレックスと同等に、考えてばかりいるのにそれを形にできない、クリエイティビティに落とし込めない悔しさも、大学入学以降感るようになった。
その悔しさを私は、他のジャンルの音楽やカルチャーに分散しつつもパンクを聴き続けることで紛らわせているのかもしれない。

又吉直樹『火花』にて、主人公の徳永の心情を表したこの一節が心に残っている。

神谷さんの突飛な言動や才能を恐れながらも、変態的であることが正義であるかのように思い違いをしていた。いや、芸人にとって変態的であることが一つの利点であることは真実だけれど、僕はただ不器用なだけで、その不器用さえも売り物に出来ない程の単なる不器用に過ぎなかった。それを神谷さんの変態性と混同して安心していたのである。僕が思っていたよりも事態は深刻だったのだ。

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上手に生きたいけど出来ない、日陰から抜けられない

そして今、残り2ヶ月で二十歳が終わろうとする現在、私のリアルを表しているのが例の先輩の言葉。

よっぽど最近は、無理に上手く人付き合いをする必要も無いと思えるようになってはいるものの、それを選択した自分に何が残るのかという恐れもある。

だからこそ私は、今もこの先もメインから逸れた道を進みたがるのだろう。現に、パンクに勝るほどR&B、ソウル、オルタナティブを聴いている始末だ。他のカルチャーに関してもそんな傾向がある。しかしここで言いたいのは別にそれが良いか悪いかではないし、というか私は普通に好きだから選んでいる。ただあくまで客観的に見てズレているということである。


パンクの話に戻る。
パンクというのは、目の前にある理不尽や目の前で落ち込んだり悲しんだりしている人に対して、おもねること無く「自分はこう生きる」と見せつける態度であるらしい。
HEY-SMITHのフロントマン、猪狩氏は以下の様に言っていた。

他人を否定するんじゃ無くて、ムカつく意見があったらそれに中指を立てて、もっともっとカッコい自分の姿を見せること、これが俺たちがパンクに教わったことやと思う

パンクの精神を綺麗に、かっこよく説明するならばまさにこの通りである。私はこの表現にとても共感している。


その一方で、中学生の自分がメジャーなポップスやロックよりもパンクを選んだことは、やはり自分の中のジメジメした部分を紛らわそうとしていた面があると思う。ズレた道を進みたがるある種の勇気の無さを、パンクの媚びない・おごらない態度に映し出し、共感していたのだろうと思う。
幅広くカルチャーを好むようになった今、その動機は薄れたと言っていい。だが心の隅に「日陰から抜け出せない」ジレンマがあるのも確かな事実だ。


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まぁなんとも救いようのない発見であるし、知ったからどうかなるわけでもないが、我ながらリアルな自分を構成する要素なのではないかと1人感じている次第である。





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