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179 各時代的な発想


はじめに

滋賀県東近江市の小椋正清(おぐら まさきよ)市長の発言が物議を生んでいます。小椋市長は、1951年(昭和26年)生まれの方です。まさに昭和の人といったところでしょうか。物議の原因は、市長の発言にありました。発言の一部で、「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない。」と述べています。
この発言に対して発言の撤回を述べていますが市長の本心は、変わらないことはその後の記者へのインタビューでも察しが付くところです。
多くの関係者から抗議文が出ています。市長という立場を利用して一人一人の学び方や不登校で悩む子どもたちの心情を傷つける発言をしたことに対して全国から非難が上がっています。こうした現状を見ていて不登校やフリースクールへの理解以前に時代を背景としたものの見方の違いについて、今日の教育コラムでは少しお話してみたいと思います。

価値観の相違

小椋市長は会見で、日本の国際競争力が低下しているとして「国家、国力を回復し、強い子どもをつくっていこうという思いだった。」とも述べています。また、「論理が飛躍しすぎてなかなか理解が得られないだろう。」と自らの発言について説明しています。
この発言を見てもわかるように、「論理が飛躍している」のではなく、時代錯誤による価値観の相違と自らをアップグレードできないまま歳月を重ねていることが原因だということに気づいていないことが、重大な問題だということに気づいていないようです。
このことは、その後の「不登校の責任の大半は親にある。」という小椋市長の発言からもわかります。自分の発言に配慮が足りなかったとしている市長ですが、配慮ではなく社会的な問題となっている不登校の問題やその問題と向き合い子どもたちの学びを支えているものの一つであるフリースクールの取り組みを十分に理解しようとしていないことに問題があるのです。

時代による思考

各時代にはそれぞれ、文化や歴史に特色があることは皆さんご存じの通りです。日本人の全体像としての考え方にも傾向があります。例えば、30万年前にさかのぼる旧石器時代の社会は、群れまたは小さな身近な人々同士における社会ごとに行動していました。そこには、狩りが達者なものや経験豊富な指導者のような人物が存在していました。
男性・女性はおおむね 平等で、男性は狩猟、女性は漁労および育児などをしていましたが、この役割もしばしば共有されていました。つまり、明確な分業はされていなかったと考えられています。
その後の日本社会は、貧富の差の登場で争いごとの絶えない時代をしばらく過ごしていきます。大王から天皇にそして朝廷政治から武家政治へと移行していく中で封建社会が深く浸透していきます。
このような時代の移り変わりの中で、働くこと、国に尽くすこと、学ぶこと、家族との向き合い方など様々な事柄に対する価値観や知識が形成されていきました。
それでは、小椋市長の根底にある昭和の価値観とはどのようなものなのでしょうか。一般論として平成や令和と比較した昭和の価値観の一部を次にまとめてみますが、あくまでもこれに当てはまらない方も多くおられることは大前提です。

昭和の価値観

昭和26年生まれの小椋市長の育った時代のテレビドラマや大衆映画を見ていくと次のような発言や行動を日常の風景として描いているものを目にします。これらは、当時の常識の一部でしたが、当時から世界の非常識でもありました。
・夫は家族のために仕事第一で働き、妻は家にいて子供を育てと家事をする
・家事と育児に専念する女性には高学歴は不要である
・子どもは学校でみんなで、同じことをして過ごし、他人の立場に立って、 
 考え行動するべきである。
 という協調性を養うものである。
・上下関係を重んじ年上が偉く敬語を使うべきである。
・形ある物に価値があり、価格が高いほど価値も高いものである。
・お金を多く持っていれば幸せである。
・男は外で働き金を稼ぐのだから家にいる女より偉いのである。
・家事や育児は女のやるべきことである。
・稼いだお金はなるべく使わず貯金するものである。
・子供にはお金の使い方を教えるより貯金の習慣を持たせるべきである。

貯金の習慣は今や投資へと思考が移り変わってきていますし、専業主婦の概念など、現代社会では通用しません。学校教育の目的についても個を重要視したものや主体性を重んじた内容に変化してきています。
昭和という時代における「国益上」必要な考え方を基本とした価値観が教育の現場でも社会でも作られていった結果が上のような当時の価値観をかたちづくっていったのでしょう。
その影響は、現代社会に今も根強く働きかけているため、今も世界に大きく劣る「ジェンダー平等の実態」や「見える学力に偏った教育や試験制度」や「共働き世代の子育て環境の整備の遅れ」につながっています。

市長の発言

「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない。」
「不登校の責任の大半は親にある。」
という2つの発言は、まさに現状認識を昭和30年代、40年代を学生として過ごし、情報や見識をアップグレードしてこなかった小椋市長ならではの昭和的感覚の物言いとなるわけです。
学校にみんな行くものだという考えは、同じようにすることが国家の根幹だと考えている人には当然の思考なわけです。また、不登校の原因は、しつけや家庭教育の責任であるという考えについても、医学的な見方やいじめなどの社会的な課題を認識できていないと言えます。

選挙

我々国民は、リーダをたびたび選びます。そのたびに政党政治が行われている日本では、人ではなく政党でリーダーを選ぶことがあります。私たちは、人物の中身をもう少し見ていく練習が必要なのかもしれません。
国政でも地方政治でもたびたび感じることは、国民のリーダーを見極める力のなさです。最近耳にするニュースに政治家の不祥事が多いのもこうした国民の人を見る目のなさが影響しているのかもしれないと思うと我々は、学ぶべきことがまだまだ多いように思います。

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