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明日の五千円

「記憶」は、過去に起きた事柄だから、過去のものなのか。それとも、それを覚えているのは、「いま」だから、現在のものなのか。はたまた、それは、未来に起こりうる事柄に対応するためにもっているものだから、未来のものなのだろうか。

25年ほど前に Narayana R. Kocherlakota により発表された "Money is Memory" という論文がある。彼の結論は、「お金の役割は記憶が代替できる」というシンプルなものだ。お金の三つの役割と言われている「価値尺度」「交換(仲介)機能」「価値の保全機能」の観点から見ても、お金だけでなく、私たちの記憶も、それらを機能することができる。私たちは、物の尺度(価値基準)を記憶し、誰かと物々交換したことを記憶し、物の価値を記憶し続けることがある程度できる。つまり、一人一人が、それらの記憶をここに有している限り、その集合、社会全体における集合記憶により、私たちは貨幣経済(貨幣に準した資本経済)に似たものを運営し続けることができるのではないかという話である。

彼は、大胆に「お金」=「記憶」と仮定しており、現在、私たちが「お金」だと思っているものは実は、「記憶」でしかないのではないだろうと提起している。でもそれは、私一人の記憶ではなく、私が知り得ない他者の記憶も含まれている。さらに言えば、その記憶の99.99...%が他者の記憶であり、私の記憶が反映する分は「お金」というもののごく一部に過ぎない。そもそも、今あるお金は、今の生きている人々の記憶だけでなく、生きていた人の記憶まで反映しており、大量の記憶の中で紡がれたものであるのかもしれない。

お金さえなければ、もっと平等に暮らせるのに、とお金というものが時に「悪役」とされる。実際、金銭的な理由から、心身の不調を訴える人は多くいる。お金さえあれば助かった命が多くあるのは紛れもない事実である。しかし、そのお金が私たちの集合記憶であるならば、この貨幣経済から抜け出すためには、その記憶を上書きしなければならないのではないだろうか。


冒頭の疑問に立ち返ってみると、

「お金」は、過去に起きた事柄(過去の取引)に付随するものだから、過去のものなのか。それとも、その事柄を覚えているのは、「いま」だから、現在のものなのか。はたまた、それは、未来に起こりうる事柄に対応するためにもっているものだから、未来のものなのだろうか。きっと全てであり、お金は、「過去」「現在」「未来」と俗に呼ばれる時間軸を自由に行き来する概念なのだろう。

人々は簡単に過去の重大な事柄を忘れることができない。失われた20年と言われる氷河期、2008年のリーマンショック、それらを生き抜けてきた人々にとって、それらの負の記憶は彼らの現在の経済判断、経済への見方に反映され続けている。現在の不換通貨は「過去にその価値を依らないお金」ではない。未来だけ見ることはできない。

そんな中最近流行っている「仮想通貨」はその価値を政府への信頼に依拠することなく、歴史も浅いことから、ある意味、「過去が薄いお金」かもしれない。集合記憶が少ないからこそ、それを、現在や未来への期待から価値を引き出そうとしている。しかし、それらも、時間が経てば経つほど、「歴史」が増え、それが価値基準の主な判断材料となり得る。

よって、「過去」を持たないお金などなく、私たちが、過去現在未来の流れから逃れることができないことと同様に、「お金」もその流れにしか沿って生きれない。そもそもそのお金は、その流れから生じる私たちの記憶に依拠しているのだから。

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