お金なんてなくなればいいのか。

フィナンスを学び始めた大学1年生の頃から約7年、ずっと頭の片隅で、「お金のあり方」について考えてきた。大学で金融・経済を専攻しようと思ったのは、お金の仕組みがなければ、もっと多くの人が辛い思いをしなくていいのではと思ったから。お金を稼ぐために辛い思いをして、身を粉にして、神経を擦り果たして自分して自分家族の生活のために日々過ごすような生き方に違和感を感じたから。でも学べば学ぶほど、それは「お金のあり方」が問題なのではなく、それを受け入れている人々の意識の問題なのだと気づいた。もっとも、今日の日本での生活において、「お金の仕組み」から逃れることは難しい。私を含め多くの人は、その仕組みを「許容」しているわけではない。そもそも許容するしないの問題ではない。殆どの人にとって、生まれた瞬間から、そのシステムに組み込まれているのだから。

将来を語るにあたって、人口減少、少子高齢化、デジタル化など色々な側面なり、課題なりが日々取り上げられ、議論されている。例えば、これからよりデジタル化が進めば、人々が欲しいのは「お金」ではなく「情報」になるのではないかと言う人もいる。そもそも今の「お金」と「情報」の何が違うのだろうか。お金はみんなにその価値を理解されている一方、情報はその価値の認識が人によって異なり、価値にばらつきが出るなどだろうか。そもそも、お金の価値は一定でもない。私にとっての100円は、他の地域、他の生活レベルを持つ人の100円とは全く異なる。100円と引き換えに得た何かしらの対価に対しての感じ方も私と他者では違うだろう。

私たちは、「お金のあり方」を真っ向から考え直していくべきではないだろうか。そもそもその根底にある社会のあるべき姿なり、生き方なり、思想的・社会学的側面も含め、今一度立ち返って考えるべきではないだろうか。

お金に流されいいのだろうか。一度しかない人生を今の「お金のあり方」「社会の在り方」で過ごすことに対して私はとても違和感を感じる。でも、だとしたら私はどうしたら良いのだろうか。仕事を辞めて、人里離れた山奥で自給自足の生活をすれば良いのだろうか。社会に違和感を感じた時、お金を稼ぐこと、使うこと、そしてそれを前提とした社会に私一人がアンチテーゼしたところで何が変わるだろうか。

考えれば考えるほど日々の生活からフェードアウトしたくなる。別に仕事が辛いわけでもない。家族とも、友達ともうまくいっている。恵まれた生活を出来ている。でも、今私が何不自由なく過ごしているこの瞬間も、誰かが苦しんでいること、お金を理由に自分の生活に、自分自身に絶望しているを考えると、ひどく苦しい。その苦しさから逃れたい。早く消えてなくなりたいと思ってしまう。

一部の人が苦しいのも、もがくのも、当たり前のことで、それこそが私たちの生態系であり、それを支えている社会の仕組みだと割り切れば良いのかもしれない。でもだとしたら、私はそんな社会を僅かながらでも構成している一人であることが耐えられない。


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