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アイスランドから見る風景:vol.20 高知ー山の神が棲む処

わたしが旅をするとき、目的地に選ぶ場所には条件がある。それは言葉が通じるということだ。大抵の先進国では英語で何とかなりはする。それでも話す相手が、わたしが使える外国語を母国語にしていると、コミュニケーションの質が違うことは確かだ。外国人同士が話す英語はあくまでツールに過ぎない。それぞれの言語が持つ繊細な綾(あや)やニュアンスは、母国語でない限り使いこなすことは難しい。言語を操る能力は、”理解”よりも”表現”のほうが明らかに難易度が高い。

年齢のせいもあると思う。新しい言語を習得するよりも、今使える言語を上達させたい、目新しいものに触れるよりも、見知った風景の奥やその裏側を見てみたいーそんな気持ちが強くなった。そう考え始めると、視線は自ずからドイツ語圏、英語圏に向かう。もちろん遥か彼方の日本へも。バイリンガルに育っていないわたしには、日本語だけが母国語なのだ。

年号が平成に変わって間もない頃にドイツへ移住したため、わたしには日本で過ごしたの平成時代がない。生まれ育った昭和だけを背景に、欧州に出て来たとも言える。自分史の中で”平成”がすっぽりと抜け落ちてしまっている。それを何も不便に感じないのは、帰国したときに会う家族や友人が、日本での過去の自分と密接に結びついているからだろう。そもそも実家に帰ると言うこと自体が、過去の自分の居場所に戻ることだ。

しかし今回久しぶりの一時帰国で、今まで行った記憶のない場所を訪れてみようと思った。そこで選んだのが高知だ。わたしの戸籍は高知県高知市なのに、町の記憶がまったくない。パスポートを更新する度に高知から戸籍を取り寄せは、何とも不可思議な気持ちになる。自分と繋がりがあるはずなのに、何も語りかけてこない場所。いつもどこかで引っかかっていた。

高知を選んだもう一つの理由は、この場所が四国という島の裏側にあるからだ。高知人にすれば、表と言うのかもしれないが、本州から見ればどうしても海の向こう側というイメージになる。それが、何となくアイスランドと重なった。海の向こうの最果ての地であることに、アイスランドも負けてはいない。同じように中央から離れた土地であるならば、どちらがさらなる僻遠の地であるか、比べてみても面白いだろうという気持ちもあった。

四国霊場第三十一番札 竹林寺の水先案内人。 
外界を映す碧の瞳に、植物の緑の色彩が織りなす自然の美しさを見た思いがした。

当初は新幹線を使っての移動を考えていた。しかし地図とにらめっこをしているうちに、東京からフライトで行くのが大幅な時間の節約になることに気付いた。ただし問題は天候。わたしの帰国日程の直前に、四国は梅雨入りした。自然観光の印象を大きく左右するのは、滞在時の天気だ。こればかりはどうしようもないが、数日の差で天気が変わるのであれば、東京滞在を調整して高知入りを前後できると考えた。アイスランドも天気は変わりやすいが、基本気温は低く乾燥している。同じ雨でも、高温多湿の気候の雨は種類が違う。まず感じるのは寒さだ。じめじめ、べとべとという、重くまとわりつく空気ではない。

結局予定通りに高知入りすることにした。天気予報は驚くほど目まぐるしく変わったが、日本行きの出発3日前くらいから大きな違いがみられなくなった。初日と2日目の午前が雨で、その後の天候は曇りから晴れ。太陽の顔を拝めなくても構わない、雨さえ降らなければ、機体を濡らさずに写真は撮れるのだから。

そう思いながら、雨が降り出した東京から、高知行きの国内線に乗った。天候が不安定なときは、気流の影響のない高度に達するまで、もしくは着陸するまで飛行機とは揺れるものだ。スウェーデンでの国内線のプロペラ機でトラウマ経験をしたわたしは、それ以降飛行機が揺れると手に汗をかくようになった。車や列車のほうが、事故または大けがの確率は断然高いにも関わらず、高さのために逃げられないと考えると恐怖は寸時に倍増する。機内アナウンスで揺れが予想されると事前に伝えられても、実際に揺れ始めるまで人は普通心配しないものだ。しかし揺れ始めた途端、機内乗客全員の顔色は変わった。気づかずに済んだり、無視したりできるような揺れではなかったのだ。手が汗で滑って座席の手もたれを掴むことができないくらい、怖い思いをした。ジェットコースターが好きな人には、たまらないスリルだろうが…。

高知空港に着くと、蜘蛛の子を散らしたように乗っていた人の姿が見えなくなった。市内へ行く空港バスに乗り込んで、道中の景色を眺め始めるうちに、わたしは自分の視界が山の緑に徐々に浸食されていくのを感じた。山が生きている、と思った。山に植生する木々や植物たちは、貪欲な生への執着を隠そうとはしない。太陽の光を探る触手のように天を目指しながら、それぞれが地表を陣取り分断して群生している。異なる緑の色合いと形状が不思議な均衡を湛えて、そこにあった。もはやこれは”山”ではなく、”お山”だ。高知の山は地形の域を越えて、多様な生命の総体となった生きものであることを実感した。市内に入り、旅館の部屋から町を展望したときにも、その思いは強くなった。高知では、人はお山のなかに住まわせてもらっている。それほど人と山が近かった。

この印象を翌日から高知で合流した岡山の友人に話すと、彼女は笑ってこう言った。「アイスランドで岩だらけの草木がない山を見てるから、きっとそう思うんだよ」彼女はアイスランドに来たことがあるので、あの極に近い島の自然を知っている。そんな彼女の答えにそのときはそんなものか、と思ったわたしだったが、その後他の地域の自然を見て回る機会を得たとき、やはり高知の山は独特だという自分の印象は強くなった。

寺内の他の生命たち。苔や野草、低木植物が一緒になって、
彫像に生命を吹き込んでいるかのようだ。

友人とは桂浜と水族館、そして牧野植物園を一緒に見て回った。桂浜を目指して海沿いを走っているときに、数多くの墓地が目に入った。新旧混ぜた様々な墓石がみな、海の方を向いて並んでいる。海で遭難した人たちの墓標なのだろうか、それとも高知では、死者は海に帰っていくのだろうか。これだけの数の墓が道沿いにあるのは壮観だった。

次はナビと標識に従って植物園へと移動した。それまでは平地を走っていた車が、急に山道に入り込んだ。高知のお山のひとつ、市内からすぐの五台山だ。斜面の角度と狭い道幅には恐れ入った。アイスランドで視界の開けた広い道に慣れているわたしには、とても運転できそうもない。対向車が来ないことを祈りながら、木々の中を走り抜けた。山頂への道が一方通行なのが分かったのは、植物園見学後に違うルートで山を下ったときだった。事前に知っていたら、こんなに心臓はばくばくしなかっただろう。

その日は時間切れだったので、隣接した竹林寺には翌日一人で訪れた。寺の入り口へと続く苔むした階段を見上げた途端に、寺が山の腹の中にあるような印象を受けた。区画整備をして居場所を確保し、山の浸食に拮抗している牧野植物園とは対照的だ。竹林寺も、設立当時はそんなふうに人の手が隅々まで行き渡ったお寺さんだったのかもしれない。しかし、その聖域に古代から君臨している山の神さまが再び顔を出して、辺り一帯を昔の姿に戻そうとしているのだろうか。それほど、人為は自然の力には抗しがたい。内側から溢れ出る自然の魔力を止める術はない。

見たところ、お寺の敷地内に置かれた彫像や仏像は、時を経てお山といたるところで同化している様子だった。そこには、不思議に心慰められる平穏があった。何か大きなものに呑み込まれ、存在そのものの形や意識が変わっても、そのまま生き続けることができる、とても言うのだろうか。その自然の大きな循環に無理に贖おうとしないお寺に、対立ではなく、共存・同化という高知人の自然観を見たような気がした。

寺の境内の中の子安地蔵たち。
供養された水子たちも、すべてのものと同じくお山の懐に抱かれながら、自然に還元されていく。

その後境内で写真を撮っていると、撮影会に来ているのだが、良かったら先生を紹介すると人に話しかけられた。最近カメラの面白さに目覚めて撮影会に参加するようになったので、興味があったらいかがですかと訊かれ、高知在住ではない理由からお断りはしたのだが、その申し出をわたしはとても嬉しく思った。先回のエッセイに書いた通り、機種の話は確かに苦手である。しかし写真撮影の意見交換の機会はできる限り持ちたい。撮影時はおしゃべりできなくても、間あいだの挨拶や世間話は楽しいものだ。

結局、竹林寺では半日を過ごした。学生時代からいろいろな寺社に足を延ばして参詣していたわたしにも、竹林寺のようなお山の神さまが棲んでいるお寺は初めてだった。魅せられたとしか、言いようがない。やはり霊場ということで、四国は本州の寺社とは何か違うのだろうか。これは、高知県の他の霊場、しいては四国の他の地域の霊場に足を踏み入れてみないと、何とも断言することはできない。しかしながら、山神の棲む寺社探しは、きっとわたしのライフワークになるだろうという気がする。

境内で整備された庭の一部。
姿見がいい紫陽花というのを、初めて見た。
着流しの粋な着物姿の女性を彷彿とさせる紫の紫陽花。
狭いエリアの中で、色違いの紫陽花がバランスよく植えらている。天然の自然が大部分を占める庭の中で、一部分だけがよく手入れをされていると、思わず目が引き寄せられる。
参詣に来た人たち。
階段の登り口に誰でも自由に使える杖が置かれていた。
白装束のお遍路さんには残念ながら行き当たらなかった。

さて、街中でもいろいろと興味深い場面に遭遇したものの、写真には残していない。マスクのせいでわたしには人物撮影に面白味を感じることができなかったのだ。唯一これは、と思ったのは木曜市で出会った子供たち。わんぱく坊主がわたしの撮影に気が付いて、即座にポーズを取ってくれた。彼の様子や市場の雰囲気は、わたしの子供の時代のそれと同じだ。昭和がそのまま止まってしまっている。ここに来て、失った時間を接ぐのはきっと難しくないだろうー高知はそんなことをわたしに感じさせた場所だった。

瞬時にポーズをとる地元の小学生。
こういう男の子は、どの学校にもいると思う。
昔を思い出し、思わず笑ってしまった。
さつま芋の蔓を見たが、どのように調理をするのだろう。


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