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アイスランドから見る風景:vol.18 ベルリンの西と東

今月の中旬・4月10日から14日の4日間、ドイツの首都ベルリンに滞在した。旅行を思いたったのには、幾つかの理由があった。まずは何と言っても、アイスランドでは縁遠い春のぬくもりを感じたかった。それなら別にベルリンにこだわる必要はなかったのだが、実は昨年10月の夜景撮影が手ブレで大失敗しており、早い時期にリベンジ撮影をしたいと思っていた。それに加え、ロシアのウクライナ侵攻後、ドイツの首都の雰囲気がどのように変わったのかにも興味があった。4月15日からのイースター(復活祭)の混雑を避けたかったので、その直前を時期として選んだ。ギリギリに決めた旅行だったので、フライトチケットが高かったのは仕方ない。それでも昨年とは比べられないほど、燃料費の高騰を感じさせる値段だった。

アイスランドではコロナはすでに過去形になっている。ざっと見渡しても、ケプラヴィーク空港内でのマスク姿は激減していた。しかも今回は、前日でオンライン・チェックインを済ませ、搭乗券もダウンロードすることができた。あとは空港で荷物をカウンターに預けるだけだ。煩雑な入国ルールは渡航先の国が決める。今回は欧州からの旅行者に対して、ドイツ政府が入国条件を緩和したのが幸いした。同じ日の出発でも、行先が違えば長い列に並んでカウンターでチェックインをする羽目になる。ちなみに、乗客はワクチン接種証明をオンラインでアップロードする必要があった。またフライト中の機内でのマスク着用は、以前と同じように義務付けられていた。

ベルリンに到着した後は、すぐにタクシーに乗り込んだ。今回ご縁があったのは、母親はブレーメン、父親は東ベルリン出身の、生粋ベルリンっ子の運転手さんだった。歳は40代前半くらいだろうか。ベルリンの様子はどうだと聞くと、デモの規模がますます大きくなったよ、という答えが返ってきた。これまでは環境問題やコロナ規制に抗議していた市民が、反戦の旗印の下で一致団結、また仁義的にウクライナ国民に同情的な人たちがデモグループに新規参入したそうだ。デモ参加者の数が大きくなるのも、不思議ではない。

ドイツに住んでいる友人から、ヒマワリ油とトイレットペーパーが不足していると聞いたと言うと、運転手さんは呆れたように、頭を振った。「意味ないよ、トイレットペーパーなんて買いだめをしてもさ。ロシア軍が攻めてきたら、トイレットペーパーが家にあったってしょうがないだろう?あんなふうに空爆されたら、そんなことはどうでもよくなる」人は自分ではどうにもできない状況に置かれると、何かをコントロールしたいという衝動に駆られて買いだめをするらしい。聞きかじったそんな意見を披露すると、運転手さんはわたしの顔を見て、こう言った。「でもさ、それがどうしてトイレットペーパーなんだろう。ヒマワリ油や小麦粉なら、ウクライナが多く生産しているから分かるけど。理屈に合わないよね」

そんな会話をしていると、あっと言う間にホテルに到着してしまった。まだまだ聞きたいことはたくさんあったのだが、タイムオーバーになった。視野が広く、話題の豊富な運転手さんに当たると会話が弾み、時間はいくらあっても足りない。支払いを済ませた後、トランクからスーツケースを出してもらった後、運転手さんからこう言われた。「重いね。一体何が入っているの?」このセリフは、毎度恒例だ。

ドイツの国会議事堂Bundesdag

ベルリンは何度も訪れているので、ある程度の土地勘はある。写真を撮るようになってから、撮影の場所に合わせてホテルを選ぶようになった。街中で撮影をするときは、駐車場を見つけるのに一苦労するので、車は使用しない。ただそのために、重い機具を担いで歩く羽目になる。今回はどうしても議会周辺の夜景を撮りたかったので、安定感のある大きな三脚も持って来た。夜景と早朝の撮影となれば、とにかくホテルはすぐそばに限る。そこで、ブランデングルク門の近くに陣を取ることにした。

わたしはドイツ建築の機能美が好きだ。建築工学の規則に則って造られた建築物には、整合と均衡が生む調和の美しさがある。合理性を重視した、質実剛健で簡素な外観だが、それでも古い建築物は造られた時代の流行に従った装飾性も持ち合わせている。ドイツ建築は全般的に、わたしには男性的に思える。日中はどっしりとした荘厳さが前面に出ているが、夜になるとそれに華やかさが加わる。人の姿は闇に消えて背景に沈み、壮大な建物は人工照明の中で力強く優美に浮かび上がる。ドイツという国が持つ、重厚な美を感じる一瞬だ。

この日の夜の気温は15度前後で、しかも晴れていた。指先が凍えるような寒さの中とは違って、この天候だと撮影自体がかなり楽だ。写真映えがする夕暮れの時間帯も幸いした。旅先の天候は与えられたものを最大限に活かすしかないのだが、今回はツキに恵まれた。嬉々として撮影に没頭し、久々の高揚感を味わう。撮影の条件が良好だと、本当にうれしくなる。これでいい写真が撮れないとすれば、それはひとえに自分の力量不足に還元されるが、それはそれでいい勉強だ。ただ今回は手ブレさせないぞ、と心に誓った。

ベルリン中央駅 Hauptbahnhof

写真撮影をしていると、人に声をかけられることがある。何を撮っているかは見ていれば分かるから、訊かれることはまずないが、カメラ談義を持ちかけられると返答に窮する。持っているカメラの機種やレンズは分かっていても、他のメーカーのカメラどころか、同じメーカーの別の機種のこともよく知らない。わたしの場合は、何気に使い始めたNikonのカメラが、時間とともにバージョンアップしていっただけだ。しかも、話しながら設定ができるほど撮影数をこなしていないので、会話を始めるとどうしても手は止まる。刻々と変化する光を横目に、どうやったら話を切り上げられるか、そちらのほうにばかり気が取られてしまって、相手に申し訳ない。

他にも困ることがひとつある。それは別のカメラで撮影を頼まれることだ。プロではないので、人の使っているカメラを渡されると、携帯ならともかく、何をどうしたらいいか分からない。大きなカメラを担いでいるわたしの外見から、小さなカメラの操作なぞ、造作ないことだとひとは思うのだろう。使い慣れたカメラだから、ある程度暗闇でも操作できるようにはなったが、これが他人のものだとまったくお手上げだ。

ベルリン・ブランデンブルク門

今回も22時を過ぎたブランデンブルク門の前で、修学旅行中の高校生と思われるドイツ人の男女生徒に写真を頼まれた。シャッターを押してから、思わず慌てた。フラッシュ機能がないカメラだと気が付いたのだ。建物はライトアップがされていても、街灯は光源として十分ではないので、人の顔ははっきりと映らないことが多い。わたしが撮影をしているのを見て、きっと自分たちのカメラでも普通に撮れると思ったのだろう。あまり上手に撮れていないと思う、と言いながらカメラを返し、足早にその場を立ち去った。大丈夫ですよ、と笑ってカメラを受け取った男の子の笑顔が胸に痛かった。あとで写真を見たとき、頼んだことを後悔しなければいいのだが…。

欧州ユダヤ人虐殺・ホロコースト記念碑

翌日は、晴天の予報だった。今回の滞在で一番いい天気に当たる日だったので、早朝に起きて撮影に出かけた。起きて準備をするまでは辛いが、一歩街に繰り出せば、後は楽しいことばかりだ。朝5時~6時の時間帯の政府機関周辺には、観光客の姿はない。出勤や夜勤帰りの人たちの姿がチラホラしても、それはベルリンの日常のひとコマとして、逆にありがたいくらいだ。ユダヤ人のホロコーストを悼んだモニュメントを、朝日の中で撮影することができたのも嬉しかった。通常ここは、観光客の姿で埋め尽くされている。

しかし、一番心に残ったのは、再度ブランデンブルク門に足を運んだときに出会った風景だった。この周辺は、第二次世界大戦後の世界新秩序を象徴するように、当時の戦勝国4か国ー米・英・仏・露ーの大使館が軒を連ねて並んでいる。ロシア大使館は、前日の下見の時にも厳重に警護されており、早朝の様子も知りたくて、前を通ることに決めていた。日中は人通りも多く、撮影をしてもテーマを明確にできないと思ったので、人気のない翌日の早朝に取っておいたのだ。

周辺には誰もいないと思い、大使館前に置かれていた死者へのお弔いを撮り始めたとき、若いドイツ人の警察官が不意に視界に入って来た。大使館の警護をしている彼は、わたしが写真を撮っていることに気が付かずに、画面の中にゆっくりと足を踏み入れた。そして、地面に視線を落としたまま、黙禱でもするかのように、手向けの前でしばらくの間立ち止まった。

ブランデンブルク門近郊にある、ロシア大使館。
正面にも裏口にも、柵が何重にもなって張り巡らされていた。
警備を任されているのは、ドイツ警察だ。

この警察官の姿をファインダー越しに見たとき、少年の面影が残る彼の顔のあどけなさと、そこに浮かんだ哀しみの表情に胸が突かれた。ウクライナでは18歳からの男の子たちが徴兵されて、戦争に駆り出されている。それはロシア側でも同じだろう。生まれた国が違っていたら、わたしは自分の21歳の息子を戦場に見送ることになったのだ。戦争が2年続けば、今は16歳の息子にも同じ運命が待っている。わたしは、ドイツ人の若い警察官の姿に、戦場にいる若者たちと自分の息子の姿を重ねた。彼が見ている視線の先に、ロウソクや花ではなく、犠牲になった人たちの屍を見た。そして、利権や歪んだ名誉心から、自分のものでもない若者の命を簡単に犠牲にする大人たちを、戦争を、心から憎いと思った。

この日の撮影は、結局この早朝だけで終わった。一旦ホテルに戻り朝食を取って休んだ後、再びカメラを手にして外に出る元気を失くしてしまったのだ。ロシア大使館前での光景が、わたしに戦争の現実を身近に感じさせたせいだろう。タクシーの運転手さんとウクライナの話をしても、それはあくまでドイツでの彼の経験や感想であり、わたしのものではない。しかし、若いドイツ人警察官がわたしに息子たちを思い起こさせたことによって、戦争に対して個人的な見解が生まれた。自分の生活と直接関係のない異国の出来事は、それがどんなに凄惨なものでも”情報”の域を出ることはない。しかし、それが個人の生活と関連付けられると、途端に違った様相を帯びる。ある意味ではとても利己的だ。

特に行先を決めることなくぶらぶらと歩いていると、1953年東ベルリン暴動広場に行き当たった。1953年6月16日に起こったこの労働者ストライキは、ノルマ未達成は賃金カットという新政策を東ドイツ政府が打ち出したことに端を発する。およそ300人ほどの労働者たちで始められた抗議運動は、翌日には4万人の大衆運動に発展し、労働条件の改善から政府の退陣という政治改革までが要求に含まれる運びになった。政府と抗議運動関係者が会合を行う一方で、当時のドイツ駐留ソ連軍兵士2万人がデモ鎮圧に投入される。最終的には、抗議運動は多くの死傷者を出して鎮圧された。スターリンの死後、自国の存在感を再度世界に知らしめる機会として、ソ連はこの東ベルリン暴動を政治的に利用した。1953年のベルリンでの武力行使は、その後に続いた1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春でも同じように繰り返され、ソ連は抗議運動弾圧を軍隊で鎮圧するのを常套手段としたのだった。

広場には、当時の様子を知ることができる写真資料が展示されていた。およそ70年前に、このウンター・デン・リンデンというベルリンの一角で、ソ連兵士が出動して大衆を威嚇し、発砲して死に至らしめた。ロシアで反体制運動を行う若者や、野党指導者アレクセイ・ナヴァルニ支持者が、ロシア兵や警察に蹴散らされる光景と同じ様子だったのだろう。ソ連軍の戦車が同時のベルリン・ミッテ行政区を進行していく風景は、今日ウクライナ侵攻の様子と大きくは変わらなかったに違いない。しかも、壁のすぐ向こうには、西独・米・英・仏の駐留軍が待機していたはずだ。

現代のベルリンでは、東と西の分断の傷跡は都市開発の波に呑まれて、日に日に記憶から薄れていく。ベルリンが旧東ドイツの中の浮島で、4か国に分かれて統治されていたなんて言われても、壁崩壊後の世代には歴史の教科書に載っている出来事としか思われないだろう。ベルリンのMitte (ミッテ)区が西のKreuzberg(クロイツベルク)やTiergarten-Chalottenburg(ティアガルテン-シャーロッテンブルグ)とは全く違う世界だったことなんて、今日この区間を行き来しても、想像することさえ難しい。それほど東と西は均質化してしまったのだ。

街角のカフェ・レストラン。
人通りの多い場所から離れて横道に少しそれれば、
このように面白い個性的な建物に遭遇できるのがベルリンである。

それに比べて、ロシアの時間は1953年から止まったままだ。ドイツの東と西の統一は、その後の東ヨーロッパの欧州帰属の先駆けとなった。西ヨーロッパとロシアに挟まれた国々は、共産主義のソ連の覇権を逃れて、民主主義と自由経済を標榜する欧州への加入を望んだ。ロシアは、旧共産圏東欧諸国と新しい共存圏を構築することに失敗した。その理由は明白だ。ロシアにとって東欧諸国はあくまで都合のいい旧ソ連の衛星国でしかなく、これらの国を民族や言語、文化が異なる独立国家として、自国と対等に扱うことを拒んだからだ。その結果、これらの国は東に背を向け、西を目指すようになった。政治は独裁者の一存ではなく、国民の合意によって行われるべきであるという民主主義的の概念を、ロシアの政治上層部は理解しない。それは、歴史の立場から見てもロシア的ではないので、検討の必要さえないのだ。

ベルリンのFriedrich Strasse。部分的に歩行者天国になっている。美味しいレストランやカフェが点在するスポットであると同時に、観光ポイントに足を延ばしやすいのが魅力的。

ロシアが時代の檻に捕らわれたまま、そこから動けなくなったことは、1953年の東ベルリン暴動の歴史をざっと俯瞰するだけでも理解することができる。東の盟主というプライドを捨てて欧州に参加し、平等な権利の下で大欧州エリアの担い手になればいいのではないかと思うが、それにはまず自国の政治意識と構造を大変革する必要があるだろう。民主主義の皮を被った独裁者の居場所は、欧州にはない。欧州統合とは、結局のところ、人権と民主主義の理念の共有そのものなのだから。

政治談議で今回のコラムを括ることになったようだ。ちなみに、上記の白黒写真2点は、翌日街の中を散策しているときに撮ったものだ。これもMitte・旧東ドイツだった地区の風景だ。全体として、ベルリンはウクライナ侵攻後も大きく表情は変えていない印象を受けた。表面上、人々は以前と同じように自分たちの日常を送っているように見える。わたしの滞在最後の日は、イースター休暇前日ということもあって、観光客の姿も一番多く見受けられた。

時間の恒常性を信じ、日常の習慣を保とうとするのは、精神衛生上わたしたちには必要なことなのだろう。どんな些細な変化であっても、新しい現実に対応するのはストレスが生じるものだ。そう思うと、ウクライナの人たちの日々の艱難は、こちら側のわたしたちには安易に計り知ることなどできはしない。ただ少しでも、心の安寧と慰めがあることを祈るだけである。



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