Notes of a Dirty Old Man

別段に書き出して仕舞えばそんなことは引きずらないのですが、
先日から始めたスマホでのゲーム。
麻雀のに続けて麻雀のは余りに簡単そうだと思い始めたドットのゲーム。
だんだんしなに難しくなるんだけれど、
今回の分は三っ日か四っ日掛かっても出来ずにいました。
根を詰める訳じゃ無くぼちぼち進めていましたが、
今朝何とかやっつけれた。
嬉しくて始めたいつもの投稿、善きものと。

札幌から独り帰り、やはり独りぽちの寮の部屋。
先輩たちはまだ札幌だった。
せっかれるような時間を持たない生活。
日時を特定せずに45歳の頃のことと、
工場を無くした時期のお話しを進めておりましたが、寮でのこと。
一ヶ月程の正月休み、先輩が有る酒は全部呑んでも良いとのことで、
他人への遠慮が有ればこそ、朝から酒を呑むような設樂の無い生活。

テレビなど持たない生活でしたが、
寮にあるテレビを何の気無しに見ていれば、何かとんでもないことが、
起きたようで大火事でしょうか。青森でのこと。実感も無く。

その頃は何の気なしで過ごしておりましたが、
2005年頃から住み出した京都。
折に触れてあの時は大変だったと何かに触れて耳に入る話しが、
あっ、田舎でのあの時のことだったのかと結びついた。

そう阪神・淡路大震災 1995年01月17日のこと。
私に時間をくれた出来事。
直に45歳になる頃だったんだ。世紀末近くのこと。

自堕落な生活を送っている内に月末近く先輩たちも戻り、
いつもの生活が始まった。
しばらくは残った大きな街の近くの町を回り、雪が消えた頃には、
今度は北秋田へと、となったように覚えておりますが。
北秋の大きな街の大館が最初で、少し下がった鷹巣へも、との記憶がある。

もちろん寝泊りは現地で、鷹ノ巣では会場と寝泊りの場所が一緒だった。
そんなになればいよいよ私の苦手な人間関係が近くなるのだけれど、
お休みを終えて帰った先輩たちとの関係が微妙になり出していた。
私の何の気なしに言うことが、何の気なしの行動が少しずつわだかまる。
それに酒の入った折のことも輪を掛けていたのでしょう。
先輩にしてみれば面倒を見てやっているのにとも。

私が良くて、先輩方が悪い何て気も無いし、北海道の方の気心も知ってた。
そんなつもりでも私の殿様商売の後遺症、飲酒の癖でいや増しの、
はっきりとは見えなかったでしょう精神の不安定の、
なせる業だったのでしょうか。

工場を人手に渡した後の流転。
その頃は仕事運が無いからと簡単に片付けておりましたが。
鷹巣に居た頃には辞めるとの気持ちも定まっていたし、
歳若い同僚も辞めたいと言い出していた。

いきなり辞めれば住まいに困るのにね。
有難いことにいつものように先輩に食事や酒の面倒を見て貰ってて、
金は幾らか有ったようです。
今しばらく青森時代が続きます。
~~続く

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