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『巨匠とマルガリータ』への偏愛を語る~『別冊「羽ばたく本棚」』に寄せて

 昨年11月に発売されたつる・るるるさん著『羽ばたく本棚』では扉絵のご提供に留まらず、るるるさん、とき子さん、橘鶫さんと共に本について語り合う座談会にお呼ばれするという幸運に恵まれた。
 その昨年五月に行われた座談会にて「とにかく何かが起こりまくる小説」の代表としてスルっと私の口からこぼれたのがミハイル・ブルガーコフ著『巨匠とマルガリータ』だった。この二月に開催される文学フリマ広島6ではるるるさんは『羽ばたくセット』と銘打って『羽ばたく本棚』に鶫さんのステッカー、拙ポストカード、そして書きおろしのエッセイをセットにして売り出されるのだが、その書きおろしエッセイの一つとして私の愛読書『巨匠とマルガリータ』について書いてくださった(本記事投稿時点ではるるるさんからはどんな本のエッセイを書かれたのかは未発表であるが、こちらの記事にて公開する許可をいただいている)。
 私がnoteにて『巨匠とマルガリータ』について初めて言及したのは長編小説『その名はカフカ』第一部の第七話、昨年三月の記事である。

 この第七話の後記で「noteではこれからも自分の好きな本や音楽の紹介はしないだろうから小説に盛り込んでいく」という書き方をしているが、今回るるるさんのエッセイを手にして、改めて「私にとってこの本はどういう存在なのか」を書き留めておきたくなってしまった。
 本記事の趣旨は「大人になってから読んだ本の中で今のところ唯一私の人生を変えた一冊」と呼べる本に対する偏愛を独りよがりに語るという試みであるが、同時にるるるさんの『別冊「羽ばたく本棚」』へ誘う一編となってくれれば、という願いを込めてしたためてみる。相当な長文となることが予想されるが、お付き合いいただける方がいらっしゃれば幸いである。尚、私は幼少期から大の「ネタバレ嫌い」であると自負している。よって『巨匠とマルガリータ』のストーリー展開、及びるるるさんのエッセイの内容には極力言及しないよう細心の注意を払って進めていきたいと思っている。


出会い

 私がブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』に出会ったのは、2008年の秋である。そのころ私はプラハ芸術アカデミー映画学部アニメーション専攻の修士課程の一年生で、修士一年の作品の課題は「役者を使った制作」だった。ピクシレーション(人間のコマ撮り)か実写とアニメーションを合成させるのかはそれぞれ選べるが、とにかく作品の中に役者を登場させなければならない、という課題であった。
 チェコでの学年度は9月に始まり、大学の授業開始時期は学校によって異なるが私の大学では10月だった。課題作品は一年を通して制作するよう出題されており、秋はまだ準備段階だった。プロダクション科の同級生に出演する俳優を見つけてきてもらう、という手もあったが、私はその少し前にご縁があって知り合った舞台女優の友人に頼むことにした。
 脚本の第一案を持ち込んでその友人と打ち合わせをした時、彼女がその脚本の一部が「ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』の一場面を連想させる」と言った。これが、私とこの本の出会いである。
 既に「チェコ語で読むロシア文学」にとっぷり浸かった読書生活を送っていた私はすぐさまチェコ語翻訳の『巨匠とマルガリータ(チェコ語タイトル Mistr a Markétka)』を手に入れて読み始めた。
 読み終わってからも私の脚本との共通点はそんなに感じなかったし、その後脚本自体もガラリと変えてしまったため、仕上がった作品は『巨匠とマルガリータ』とは程遠いものになった。

 本記事の本題とは関係がないため観賞される必要はないが、過去記事で紹介した私のもっと古い作品をご覧になった方は、この作品を見て多少なりとも驚かれるかもしれない。この2009年作の『Pavane』にはストーリーらしいストーリーがない。それまでの私の作品は話の展開が「説明的すぎる、ロジカルすぎる」と批評され、それに悩んでいたこともあり、この作品の脚本の第一案もストーリーが弱い気がしたので、一度それを壊してみることにしたのだ。ちなみに技法はピクシレーションで撮影したすべてのコマ(写真)を一枚一枚加工して必要な部分だけ残しプリントアウトしてそこに手描きのアニメーションを描き加えてから改めてスキャンする、という手順で、コンピューター上での役者と手描きアニメーションの合成は一切していない。
 この作品を作るのと並行して、というよりこの作品を作ることにしたからこそ出会った『巨匠とマルガリータ』は、かなり先まで読んでいかないと「一貫したストーリーがあるのかないのかも判断つかないが、とにかく奇妙な出来事が次々と起こる」ように見える。それでいて、実は物語の中心には一本の太い筋があり、当時の私は『巨匠とマルガリータ』の世界観にのめり込んだ。

どのくらいハマったのか

 当時は本を買うと最後のページに鉛筆で小さく購入した日を書き込んでいた。私の『巨匠とマルガリータ』には2008年11月5日の日付がうっすらと書き込まれている(この習慣は後々本を売ることを考慮して数年前にやめてしまった)。
 どんなに使えるようになった言語と言っても、やはり母語である日本語での読書と比べるとチェコ語での読書は格段にスピードが落ちる。そして、かなりの集中力を要する。読書家たちの集う座談会などに呼ばれているのだから相当読んでいるのだろうと思われるかもしれないが、実は日本を離れた2002年からの私の読書量は本当に大したことはない。「日本に住み続けていたらもっと多くの本を読めていただろうな」と思う。だから私が『巨匠とマルガリータ』を読み始めて少なくとも数カ月間、私の生活にはこの本だけが存在し、この本を中心に回っていた。2009年1月から2月にかけての前期の試験期間に提出しなければならなかった、少なくとも二つのレポートで『巨匠とマルガリータ』を取り上げた。もちろん文学の授業などない。今改めて調べてみたところ「20世紀の美術」と「視覚芸術の概論と文脈」という名前の科目だった……どう考えてもこじつけが過ぎるレポートだったはずだ。しかし、この本を読む以外にほとんど何も手につかなかったこの時期の私には、この発想しかできなかった記憶がある。
 そして読み終わってから、『巨匠とマルガリータ』のオマージュ作品を描いている。

『Margarita』(2009)筆ペン、水彩

 データを取った(スキャンした)日付からして、2009年2月中旬の作品らしい。何とも感慨深く、まるで押し付けるようにるるるさんの『別冊「羽ばたく本棚」』に掲載してもらうことにした。
 そして2018年にもふと思い出したように再びオマージュ作品を描いている。

『Rukopisy nehoří, aspoň mi to říkali, mistře』(2018)ボールペン、水彩

 もしかするとこの二枚の間にも『巨匠とマルガリータ』の影響で何か描いているかもしれない。

何にそんなに惹かれたのか

 一体どうしてそんなに夢中になったのか。それが自分でも良く分からない。「常識人のように見える登場人物が話しかけてきた見知らぬ怪しい人物に対して手も足も出ない」小説の始まり方は、この小説に出会う前から私の好きな話の展開のパターンで、それが入って行きやすかった、とは言える。しかし、この小説のタイトルになっている巨匠とマルガリータの二人には大して思い入れがないと言っても過言ではない。では、この小説の何にそんなに惹かれたのか。それはやはり悪魔ヴォランドだと思う。私はあの頃、自在な時空間に存在しこの世の全てを狂わせる力を持つヴォランドに恋をしたのだ……たぶん。
 本記事の冒頭で「大人になってから読んだ本で唯一人生を変えた」という書き方をしたが、読んだ当初はそんなことは思わなかった。あれから十五年経った今、るるるさんがエッセイを書いてくださるとおっしゃるので改めて本を開いてみて、そう思ったのである。その後の自分の人生、もしやヴォランドの手中で踊らされていただけなんじゃないか、と。……詳しく書いているとネタバレになってしまうので「どうしてそう思ったのか」は割愛させていただく。

同じ『巨匠とマルガリータ』でも

 るるるさんの『巨匠とマルガリータ』についてのエッセイを拝読して、「もしや日本語翻訳は数冊に分かれているのではないか」という疑問が湧き、日本のAmazonで『巨匠とマルガリータ』を探してみたところ、一冊にまとめられている出版社もあるが、上下巻に分かれているものも見られた。
 こちらの写真は私が所有するチェコ語版『巨匠とマルガリータ』である。

一巻で完結しているし、さしてぶ厚くもない。ページ数は400ページ。同じ情報量でも日本語のほうが長く(文字数が多く)なるのかもしれない、と初めて思ったのは村上春樹氏の『ノルウェイの森』のチェコ語翻訳も中国語翻訳も一巻で完結する形態で出版されているのを知った時だ。日本語の原書は上下巻に分かれていた記憶がある。
 参考までに、私のドストエフスキーコレクションもお見せしたい。

 私が購入した順に並べてある。左から『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』『未成年』『罪と罰』。すべて一冊にまとまっている。これらの作品のほとんどは、日本語訳では上下巻や数巻のシリーズで出版されているのではないだろうか。
 余談だが、この写真の中で『白痴』だけが特別傷んでいるように見えるのにお気づきだろうか。一番古い(2005年購入)というのも事実だが、他の本は自宅で読んだのに対して、『白痴』だけは暇さえあれば読めるようにと鞄に入れて(←ニヤついてほしいところ)持ち歩いていたおかげでこんな姿になっている。

同じ『巨匠とマルガリータ』でも 2

 本記事ではマルガリータを「マルガリータ」と記述してはいるが、前出の写真でも見られるように、マルガリータ(ロシア語表記Маргарита)はチェコ語ではマルガリータではない。Markéta(マルケータ)の愛称形Markétkaである。これは翻訳の際、別名を当てはめたのではない。名前さえも翻訳されているのだ。真珠を意味するというラテン語のmargareta、ギリシャ語のmargaritésから派生した名前で、ロシア語ではマルガリータという名前を、チェコ語ではマルケータと言うのである。ちなみに「Ecce homo(この人を見よ)」のピラト総督もチェコ語訳では例の如くPilát Pontskýである。
 詳しく書いていると脱線甚だしいことこの上なくなるので、詳しくはこちらの過去記事を参照されたい↓

 何が言いたいのかと言うと、悲しいかな、愛読書について語り合おうにも、私が認識している登場人物の名前と、別の言語の翻訳で読んだ人の認識している登場人物の名前が違いすぎて分かり合えない可能性が高いのではないかということだ。例えば、日本語訳ではヨシュアと表記されている登場人物は私の認識(チェコ語訳)ではJešua(イェシュア)で、たった一つの母音が違うだけだというのに「ちゃんと発音できない人」になってしまう。
 ただ、『巨匠とマルガリータ』の中では登場人物に著名作曲家の名字が起用されていて(もちろん小説の中では音楽とは全然関係ない)、彼らに関しては問題なく分かり合えるとは思う。
 もう一つ、ロシア文学について日本語で語るのに尻込みしてしまうのに、「ロシア語のアクセントを日本語訳では長母音で表現する」傾向にある点である。チェコ語訳ではアクセントなど一切無視して単にチェコ語のアルファベット表記に変えてしまうだけだ。どちらがいいのかは分からない。日本語訳で付け加えられる長母音は、日本語母語話者にはそう聞こえる傾向にあるということだし、私の耳にもそう聞こえる。ただ、私が知る登場人物たちは紙の上のチェコ語翻訳だけで、『白痴』のロゴージンもRogožin(ロゴジン)だし、『悪霊』のスタヴローギンもStavrogin(スタヴロギン)である。自分の小説にロシア文学を登場させる際には毎回Wikipediaで登場人物の対応する日本語訳を調べて書いている。

残された課題

 前項の悩みは、ロシア語を習得しさえすれば解決されるのだ。どんな翻訳で読んだ誰が何と言おうと「ロシア語の原書ではこういう読み方になってますから」と澄ましていられる。そう思ってロシア語の教科書なんかも、まさに十五年前に購入しているのだ。ただ、ほぼ使われていない。
 そして今回、『巨匠とマルガリータ』を改めて開いてみて、当時「ゲーテの『ファウスト』を読まずして『巨匠とマルガリータ』は語れないのではないか」と思ったことを思い出した。しかし、読まなかった。ドイツ人で母親がチェコ人だという友人が「チェコ語でファウストを読んでみたけど、あれはドイツ語で読まなきゃダメだね」と言っていたのが頭の隅に残っていたというのもある。
 いや、ちょっと冷静になろうではないか。ファウストを原書で読めるドイツ語レベルってどれだけの山なのか想像もつかない。何のために翻訳文化が存在しているというのだ。世界の名作を読むためいちいち該当言語を習得していこうとしたらそれこそ人生一回じゃ足りない。ヴォランドの仲間に加えてもらえば話も違ってきそうだが、それこそドイツ語でゲーテを読むよりもえげつない儀式が待っていることが予想される。当面は大人しく理解できる言語でファウストに挑戦し、十五年越しの課題に取り組みたいと思う。

終われない話題

 うへぇ、猛烈に暑苦しいですな……!「小冊子『別冊「羽ばたく本棚」』に誘う」などと書いておきながら、暑苦しく自分の世界に突っ走って六千字に届く勢いですよ!「もっと簡潔で理路整然とした文章というものが書けないのか、お前は」とヴォランドのため息が聞こえてくる気がします。しかもですね、『巨匠とマルガリータ』から派生した話題はこれで終わりではないのですよ。ここから別テーマでますます暑苦しい記事が一本書けてしまいそうなネタが残っていまして、るるるさんの小冊子の売り上げを落とさないか本気で心配になってくるので、ちょっと時間を置いて別記事としてひっそり投稿したいと思っております。
 皆様、どうかこのような独りよがりなモノローグなんぞは適当に読み流して、もっとずっと楽しく良い意味で地に足のついたつる・るるるさんのエッセイが堪能できる『羽ばたくセット』、どうぞお手に取ってみてください。

小冊子『別冊「羽ばたく本棚」』が付いている『羽ばたくセット』が手に入れられるのは、今のところ2月25日開催の文学フリマ広島6だけ!↓


『Láska k vladaři stínů』 24 x 27 cm 水彩
今の私が『巨匠とマルガリータ』を思って描いたら何が出てくるのかなあ、と思いながら筆を握ったら、こんなものが出てきた。このカラスはkavkaではない。あちらの世界とより繋がりが強いのはhavran(ミヤマガラス)のような気が勝手にしている。


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