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その名はカフカ Preludium 7

その名はカフカ Preludium 6


2014年4月プラハ

 レンカの事務所は頻繁に来客があるわけではなく、大きなテーブルと座り心地の良い椅子がしつらえてある応接室は普段はレンカとエミル、アダムの会議室として使われていた。この日、レンカは来客用の椅子、エミルは接客の際レンカが使っている椅子に座り込み、テーブルの上に様々な書類や郵便物、ノートパソコンなどを広げて向かい合っていた。エミルは郵便物を開封しては、レンカに手渡したりパソコンにデータを入力したりしている。レンカは主にエミルから手渡された書類を読み、必要に応じて署名を加えていた。
「アダムさんは今日はペーテル君のお父さんと会合のようですね」
というエミルの言葉にレンカは小さく頷いただけで、手元の資料を読み続けている。レンカはアダムとカーロイが打ち合わせをする日、いつも少し不機嫌になる、ということにエミルは気がついていた。まるで大人の輪に入れてもらえない子供のようだな、と思い、似たようなものかもしれない、と心の中で一人納得していた。最近レニの機嫌があまり良くないのはまた別の話だけど、と思いながら、エミルはもう一度話しかけた。
「レニ、結局元司令官の乗ったトラックを襲った集団の正体は分かっていないんですね?」
「本人たちの口からは何も聞けなかったわね。単に尋ねるだけじゃ口を割るような人たちじゃないでしょうし、捕えた犯人を脅迫したり拷問にかけたりするのはサシャの流儀じゃないわ」
「サシャさんって、アダムさんたちの昔の仕事仲間ですよね。どんな人なんですか」
エミルの質問にレンカはやっと顔をあげると微かに笑って
「素敵な人よ」
と答え、そのあまりに客観性を欠いた答えに彼女自身が驚いた様子だった。一瞬の沈黙の後、気を取り直したかように言葉をつないだ。
「国では参謀本部で働いていたらしいんだけど、アダムたちと仕事をした後、結局祖国では危うい立場になってしまって、イギリスに亡命したの。今はロシアには一歩も足を踏み入れられないし、入ったら最後、捕らえられてしまう。ただね、彼を慕っている昔の部下や同志がロシアだけじゃなく中東欧このあたりにもたくさんいる。お願いすると、いつも誰かを動かしてくれる」
「僕がレニのところで働き始めてからは今回が初めてですよね。僕が把握してなかっただけかもしれませんが。それで、サシャさんは今回のトラックジャックの犯人たちをどうしたんです?」
「完全に丸腰にして金目のものも全部取り上げて目隠しして、すごく遠くの土地に輸送して置いてきたらしいわ。どこなのかは私も教えてもらってない。この片付け方、サシャは"ヴォランド飛ばし"って呼んでたわ」
「何ですか、それ」
夢中になってサシャについて語っていたレンカは急に水を差されたような顔になってエミルを見返した。
「あなた、『巨匠とマルガリータ』、読んだことある?ブルガーコフの」
「ないですね。僕がフィクションはほとんど読まないことくらい、レニは知っているでしょう?」
知ってはいたが、自分の愛読書にこのような反応をされると、やはり少しがっかりする。逆に「僕も大好きなんですよ」と言われたらどうだろう。それはそれで好きなものを横取りされたような、複雑な気分になって、素直に喜べないかもしれない。レンカはサシャとロシア文学について語り合った日々にしばし思いを馳せた。しかし『巨匠とマルガリータ』の中でヴォランドの魔力によってスチョーパが飛ばされたのはヤルタだったが、そのヤルタのあるクリミアは再びロシアの手に落ちてしまった、そう思った瞬間、レンカの思いは一気に現実に引き戻された。
 一瞬宙に浮いた視線をエミルに戻すと、エミルの観察するような瞳にぶつかった。レンカの思考が現実に戻って来るのを待っていたかのようだ。そしてエミルは再び口を開いた。
「本人たちからは何者なのか、聞けなかった。でも目星はついている、そうですね?」
「元司令官たちがウクライナを出発した時点からつけてきた、と考えるのが妥当でしょう、あのタイミングで襲うことができたのだもの」
「行きで襲うと目的地で待っている側に騒がれるかもしれない」
「帰りを狙ったほうが騒ぎが小さくすむかもしれない」
「ついでに購入物品もいただいてしまえるかもしれない」
「では旅程の真ん中のバンスカー・ビストリツァくらいで待ち伏せしよう」
ここまで二人で言葉をつないで、二人とも黙った。そして再び話し始めたのは今度もエミルだった。
「明白なのは、購入者である実業家は革命派で、その部下を狙ったのはどう考えてもロシア側だということです。レニは最初からどこか特定の国を敵に回す気はなかった。既に必要な情報は手に入った。現状を見るに、あの実業家に協力し続けるのは危険すぎる。取引は切るべきだ。これが僕の、そしてアダムさんの考えで、それはレニも充分すぎるくらい分かっているはずです」
ここで言葉を切ると、エミルはレンカの反応を待った。レンカは既にエミルの目を見てはおらず、視線はエミルの肩くらいに落ちていた。
「レニ、あなたは僕に対して時々小学生のような態度をとりますね。外部の人と仕事で話しているときはもの凄い鉄面皮で速攻で話を片付けていくのに」
と言うと、エミルは笑い出した。
「いいですか、レニは僕よりも年上で経験値も高くて、何より僕の上司なんです。レニがどうして取引を続けるか迷っているのか、何となく分かる気はするけど、あなたの口から聞きたい」
「分かってるなら、そんな責めるような言い方しなくてもいいじゃない。年上って言っても、たったの七つしか違わないでしょ」
「上司だという事実は変わりませんよ。レニの決定にアダムさんは反対できても、僕はできない。従うだけです」
あら、私あなたに対してそんなに偉そうにふるまってる?という言葉が出かかったが、レンカのこの数週間のわだかまりの原因を解消すべくここまで話を進めてくれたのだと思うと、素直に嬉しかった。
「今回元司令官の一団を襲った奴らと、弾薬庫あたりで私たちを監視していた、少なくとも私たちに目を付けた奴らは、出どころが全然違うと思うの」
「ウクライナとロシアの間で起きていることとは関係なく、目的が僕たちである一味がいる、ということですね」
「こういうのは出来るだけ早いうちに処分しておいたほうがいい。もう少しあの弾薬庫で仕事を進めれば、尻尾を出すと思うの」
「それで新たな敵を作ってしまってどうするんですか。このまま同じ取引を続ければ遅かれ早かれ大国を敵に回すんです。アダムさんがどんなに頑張ってレニを守っても、さすがに歯が立たない」
話が同じところに戻ってしまった、エミルもレンカも同じことを思ったようだったが、二人の間の空気は先ほどよりもずっと柔らかなものになっていた。
 エミルはテーブルの上に無造作に置いてあった、1月の弾薬引き渡しの際にカメラがとらえた写真を手に取った。
「さすがにこれでは全然識別できませんね。画質も荒いし、人物も遠すぎる」
「その人、なんだかわざと写ってる感じがしない?」
エミルから手渡してもらうと、レンカはほとんど真っ黒なその写真をまじまじと見つめた。エミルはおもむろに郵便物の仕分けを再開した。そしてすぐに手を止めた。
「レニ」
「どうしたの?」
エミルは何も言わずにレンカに一通の手紙を差し出した。レンカは受け取ると同時に眉をひそめた。
 手紙の宛先はレンカ本人だった。事務所に来る手紙は全て宛名は事務所名が書いてあり、レンカ個人の名前が受取人として書かれていることはエミルの知る限り今まで一度もなかった。差出人の名前のないその手紙を手に、レンカは動きを止めた。
「機械にかけますか?」
とのエミルの問いにレンカは口の端で笑うと
「どう見ても紙切れしか入ってないわよ」
と言い、エミルの側に置いてあったはさみを手に取ると封筒の端を切った。中身を引き出すと、まず何も書いていない紙が出てきたが、その紙に包まれるようにもう一枚、細長い紙が入っていた。レンカは目を大きく見開いた。
「レニ、何なんです、それ?」
エミルが待ちきれない、といった様子で聞く。レンカはゆっくり口を開いた。
「バレエの、入場券。5月に国立オペラ座で」
エミルはきょとんとしている。レンカは混乱していた。彼女のバレエ好き、特にモダンバレエが好きなことはカーロイくらいしか知らないのだ。その良さを分かる人としか趣味の共有はしたくない、という考えから、エミルやアダムにバレエ観賞に通っている話など一度もしたことはない。今封筒から出てきたのは去年の11月に初公演だった、国立劇場の舞台監督で振付師のペトル・ズスカによるプロコフィエフの『ロミオとジュリエット』の全く新しい舞台で、レンカは仕事の忙しさにまぎれて機会を逃したことをずっと後悔していた。そしてこの5月に再演されるという話は全然知らなかった。
「レニが、『ロミオとジュリエット』を見たいんですか」
これは驚いた、といった調子で話すエミルを軽くにらみつけて、レンカは
「私がエミルに心配してほしいのは、どっちかって言うと、このチケットの出どころなんだけど?」
と言った。レンカを見つめながら、エミルは慎重に言葉を発した。
「まさか、行かないでしょう?」
「どうして?」
エミルは少し大げさに姿勢を正し、伊達眼鏡を押し上げた。
「レニ、今さっき僕たちを狙っている一味がいるのだろう、という話をしたばかりですね?いや、標的はレニだけなのかもしれません。この状況下で贈り主の分からない劇場のチケットを受け取って、それに本当に乗るんですか?何か僕に納得できる説明ができますか?」
「本当に私を危険な目に遭わせようって言うのなら、こんなあからさまに怪しまれる方法でおびき出すかしら?これ、すごくいい席よ。今から買おうと思ってもまず余ってないでしょうね」
「ちょっと待ってください。それ、差出人はレニがそのチケットの価値が分かると見込んで送ってきていますよね?それが分かっていて、行こうとしているんですか?」
「この住所に送って来たってことは相手には私の居場所は分かっているの。立見席も合わせて三千人以上入る劇場で派手に攻撃してくることはないわ。この差出人があの弾薬庫の辺りをうろついていた本人なら、何か手がかりをつかむいい機会だわ」
「裏の裏をかかれたらどうするんですか、そんなところに無防備に一人で出て行って」
もうお手上げだと言うように椅子の背もたれに体を預けたエミルにレンカは意味ありげに微笑んだ。
「誰も一人で行くなんて言ってないじゃない」
レンカの一言にエミルは勢いよく上体を起こすと、前のめりになった。
「まさか僕も行くんですか?チケットは一枚しか入ってないじゃないですか」
「どんな上演も、舞台の見えにくい安い席が余っているものなの。エミル、さっき上司の私の決定には従うしかないって言ったばっかりじゃない」
そうレンカに言われ、観念したかのようにエミルは手元のパソコンで国立オペラ座のチケット購入ページを開き、レンカに贈られた席と余っている席を見比べた。
「レニの席は二段目のボックス席、舞台に向かって左手ですね。同じボックス内は全部売れている。同じ高さの席はなさそうだけど、右手の平土間でレニの席がちょうど見えやすそうなところに余っている席がありますね。舞台はほとんど見えなさそうだけど、僕の目的はレニを見張ることだから問題なし」
と言うが早いか、エミルはその席を購入した。そしてレンカに向きなおり
「どうです?これで満足ですか?後でアダムさんに大目玉を食らわないといいけど」
と言った。レンカは
「アダムがあなたを叱ったことなんて、今まで一度もなかったじゃない。来月はオペラ座でデートね」
と満足げに笑った。エミルも笑いながら
「入場は別々ですけどね」
と返した。


その名はカフカ Preludium 8へ続く


『Emil a vstupenka na balet』Bamboo(Hahnemühle)21 x 31 cm、水彩、水彩色鉛筆




【補足】

今までnote上で、自分の好きな本とか音楽とか絵とかを紹介するためだけに記事を書いたことがないなあ、とふと思ったのですが(noteで好きになった人ば別。熱入れて紹介しております。笑)、これからもそういった記事は書かないだろう、それなら小説に順々に盛り込んでいこう、と今回は自分の愛読書と、実際に行ったバレエ公演を盛り込みました。ちょっと無理があったかな?5000字くらい書いてしまいました。ついて来てくださった方がいらっしゃったなら幸いです。
私が『巨匠とマルガリータ』にはまったのは2008年くらい、それから何度もオマージュ絵を描いています。ペトル・ズスカ氏の振り付け・演出によるプロコフィエフ『ロミオとジュリエット』は2013年12月に観に行きました。5月に再演、と言うのはここで勝手に創りました。
見ての通り文化面では私、かなりの親ロシアです。だから余計、ぷうちんは許せないのであります。私ごときが「許せない」と言ったところで、ぷうちんには痛くもかゆくもないのだけれど。


私の愛読書、チェコ語版『巨匠とマルガリータ』
バレエ『ロミオとジュリエット』のパンフレット


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。