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コインランドリーにある永遠

一人でコインランドリーにいると、なぜか永遠を感じる。洗濯物はずっと回り続けるような気がするし、世界がコインランドリーと自分だけになってしまったような錯覚に陥る。それは、回るという動作そのものが輪廻的な永遠を連想させるからかもしれない。あるいは、あまりにも淡々としているから、その無機質さに永遠を感じるのかもしれない。

無機質。コインランドリーの無機質さは、たくさんの機械がひたすらに動き続けていることに由来すると思う。そして、なぜかは分からないけれど、機械と永遠は人のイメージの中で分かちがたく結びついている。例えば、不老不死といえば機械の身体だ。もちろん機械の身体だって部品が生産されなくなれば滅ぶし、なんならそれは肉体の死よりも早いかもしれない。(ロボット犬のAIBOが良い例だ。)それでも機械には、永遠を感じさせる何かがある。

例えば、三千年紀末のコインランドリーを空想する。人間はすでに滅んでいて、洗濯機だけがガシャン、ガシャンと動き続けている。ドラムの中で回り続ける衣類を待つ人ももういない。役割から解放された洗濯機たちは、喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見える。あるいは、どちらにも見えない。

社会に疲れた時、そういうことを考えることでしか満たされない何かがある、気がする。

コインランドリーはいつでも全員に開かれている。きっと三千年紀末でも開いているだろう。そして、コインランドリーはコインランドリーのまま、僕に居場所を提供してくれる。だから僕はコインランドリーが好きだ。

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