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許される妄想と許されない妄想がある

妄想というと、おかしな考えを確信することであり、一般的に愚かなことだと思われている。しかし実際には、社会はおかしな考えで満ちている。例えば宗教や紙幣などは分かりやすく妄想である。物理学や生物学を学べば、キリスト教的な創造論が妥当性の低いアイデアだということはすぐに分かる。ただの紙切れにそれ以上の価値があると確信することが集団妄想の類だということも、ちょっと考えれば明らかだろう。

妄想には、社会において正しいと見なされるものとそうでないものがあり、前者は信じることが推奨されるが、後者は有害だと見做されて医学的な治療対象となるものもある。例えば宗教、紙幣、家族、また昔であれば家父長制や人種による優劣などの妄想を、社会は推奨してきた。逆に、近所の住民に電磁波で嫌がらせをされている、といった妄想には、病名がついて治療が行われる。妄想の有用性/有害性を決定するのは、それが社会だったり医学だったりの違いはあれど、基本的に権威の行う仕事である。また当然だが、ある妄想が許されるか許されないかは、時代によっても移り変わる。昔であれば、家父長制や人種・男女による優劣といった妄想を信じることは、正しいことと見なされていた。しかし、今の時代にそんなことを口にすれば袋叩きに遭うことは明白だ。そもそも原理的に考えれば、道徳的正誤や善悪の概念自体も一種の妄想である。(だからといって、そういった概念が無い方が良いと主張したいわけではない。念の為。)

「現実を見なさい」という言葉の「現実」が実際には妄想である場合も少なくない。例えば、結婚して子供を生み育てることが絶対の正義だと考えている親に、「そろそろ現実を見て、結婚相手でも見つけてきたらどう?」などと諭されることなどは、その典型である。そもそも、ある社会で正しいとされる妄想を、その社会の内側にいる状態で妄想だと考えること自体が極めて難しい。なぜなら、そういった相対化されていない妄想は、社会の構成員にとっては現実そのものだからだ。

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