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汎地球的社会実験 グローバル・ステルス・ストラテジーを巡って

イントロダクション 創造的実践への問い


 例えば、いまだかつて、ラカンにしか創造し得なかった行為の型、実践のスタイルというものが存在するだろうか?

これが鍵となる問いである。

 この問いは、たとえ職業的なラカン派精神科医であっても、教育分析に関わる既存の制度(パス)やセッションの時間規定をいったん括弧に入れて、そのつど各自が繰り返し厳しく吟味検証するほかない。またこの問いに最終的な終わりはないだろう。つまりこの問いは対象a、鏡像段階、シェマ、欲望、欲動、享楽、現実界・象徴界・想像界、父の名、大文字の他者、サントム、ボロメオの輪、性関係(性別化)の論理式といったテクニカルタームそれ自身とは無関係である。それらが存在するからといって 先の創造性への問いに肯定的な答えが得られるとは限らないのだ。もちろん上記「ラカン」の括弧内に、他の様々な固有名詞を入れて自ら吟味検証することができる。すなわち、

この私の行為――自己の行為=自己という行為の型・実践スタイルのプロセス――に照らして吟味した場合、いまだかつて、「固有名詞=X」と出会うことによってしか創造され得なかった行為の型、実践のスタイルというものがあるだろうか?

もしこの問いにそのつど肯定的に答えられるなら、この私は「Xの徒」ということになる。だが、この問いに身をもって肯定できなければ、それがいわゆる哲学、科学、思想、宗教、芸術---といったどのような営みに関わる固有名詞であれ、それに関わることに大した意味はないということになるだろう。つまりそれは、単なる暇つぶし、生計の手段、権威や地位や冨の獲得手段---といった様々な形を取った「気晴らし」(パスカル)に過ぎない。

 


汎地球的社会実験――大英帝国・フランクフルト学派(アドルノ)・「反体制の嵐」



アメリカ亡命時に(「タヴィストック卒業生」と言われる)アドルノがタヴィストック傘下の(それによりコントロールされた)ファンドによって「大衆心理操作」のテーマで研究調査しその委託研究レポートである『権威主義的パーソナリティー』を書いたという仮説は信憑性が高い。もしそうだとすると、それはヒトラーを使ったナチスという大規模な社会洗脳実験の成果を精密に探り方法論的に確立するためのものだったということになる。フォン・ノイマンなどマンハッタン計画がらみの超A級戦犯たちは論外だが、そこまで露骨でなくてもアメリカへの亡命知識人で自覚の上か無自覚かはともかく英国(及びそれを通じて米国)中枢に利用されなかった人間を探すのはほとんど不可能だ。それら全てのパトロンなのだから。

 なお、フランクフルト大学は、ナチスのパトロンで「ドイツ帝国」そのものであったIGファルベンの本社ビルをドイツ統一後引き継いだものである。第一次大戦、第二次大戦、(ロマノフ王朝打倒=「ロシア革命」からソビエト連邦の成立にいたる)「東西冷戦」システムと同様に、そのサブシステムである資本主義体制下の(特にビートルズのフレームアップが頂点に達した60年代後半の)「反体制の嵐」が世界戦略システム中枢の捏造的な創造物であることは今や明らかである。

 

ドゥルーズ・ガタリとラカン派精神分析の闘争  ドラッグカルチャーと『ミル・プラトー』


 この点から見ると、ドゥルーズ・ガタリとラカン派精神分析の闘争の意味は、「反体制の嵐」が実は資本主義システムの全面的な「脱コード化」を媒介とした「超コード化」による汎地球的強化のためのグローバルな起爆剤となるというプログラムを記述する役割をドゥルーズ・ガタリは担ったということになる。まさにこの記述が(概ね ローカルエリアにおいてであるが)資本主義システムを正のフィードバック的に強化した。その「汎地球的社会実験」の核心にはドラッグカルチャーが存在する。

 現在形で書いたのは以後地球規模でそれが全面化し継続しているからだ。ドラッグの実物使用なしに、例えば「水だけで(ドラッグと同様に)酔っぱらうこと(ができる)」というドゥルーズ・ガタリの『ミル・プラトー』の有名なスローガンは、どれほど哲学的にその含意を好意的に(反語的に)擁護しようとしても(そしてそれは実に簡単だ)、あまりにも上記プログラムに沿った台詞であり、まさにそのドラッグそのものとその収益が何に使われているかを考えるならシステムの作動に対してナイーブだと言える。

 その当時の嵐のただなかで、アドルノをポルノ的なジェスチャーでボイコットし憤激させた「反体制」の申し子である女子学生は、このシステムの「扇動された産物」であるとはいえ、皮肉に満ちたアドルノ自身の鏡像を演じることで、壮大なシステムの捏造の核心を突いていたのだ。


 分析哲学の起源=オースティン グローバル資本主義の言語ゲームへと向かって 


分析哲学の一つの重要な起源(オースティン)は英国対外諜報機関MI6であり、反精神医学・システム論的認知行動療法アプローチ(ロナルド・レイン、グレゴリー・ベイトソン、クルト・レヴィン、一説にはビートルズも)の一つの重要な起源はタヴィストック人間関係研究所(英国王立国際問題研究所:チャタムハウスの下部機関)である。その登場の時期も並行している。(参考:How to Do Things with Words, Harvard University Press, 1962. 邦題:『言語と行為』) もし戦略的に連動していたとするなら、「大英帝国」の地球規模の狙いはなんだったのだろうか?  

マクロにはもちろん「英語(米語)」を骨格とし たグローバル資本主義の言語ゲーム、生活形式それ自体である。いわゆる「資本主義的大衆文化」という鉄の檻だ(無論その最終目標はあらゆるレベルにおける大衆の「完全支配」だろう)。

 ラカン派精神分析という言説実践には<フランス(語)>あるいは<フランス(国体)>(同時に<フランス人> という身体的現実)の自己防衛あるいは自己享楽メカニズムの側面が濃厚である。自己防衛的(神経症的)側面と自己享楽的(精神病的)側面とが内的に葛藤し「英語 (米語)」と「仏語」をともに包括するより大きな複合体としての外部の内部すなわち「英語(米語)」と闘争を続ける。いわば祖国防衛闘争としてのレジスタンスであり、職業的哲学者になる前に英国対外諜報機関MI6職員だったオースティンを源流の一つとする英米分析哲学と現代フランス思想の闘争がその典型的な表現型であるだろうという論点はここに関わる。

 

 グローバル・ステルス戦略の行方――ラカン派精神分析の変貌とグレート・ゲームの逆転

  

またこの点に深く関わるが、アルジェリア植民地傀儡勢力によるド・ゴール暗殺未遂や「五月革命」以後の無力化も英米を枢軸とする世界戦略システムによるものだろう。ビートルズに関してはどうなのかと思うのが普通だろうが、もし事実なら、おそらく彼ら自身としてもそういった戦略的な意図があったとしても、直接(少なくても 最初期の時点では)自覚できなかったと思われる。実際の活動主体が全体のステルス的な戦略を自覚できない形で任務を遂行できなければ、十分成功の可能性のある練り上げられた優れた戦略だとは言えない。ともあれ、事実はもう少し後になってから次第に明らかになっていくはずだ。少なくても、「グローバル資本主義の言語ゲーム、生活形式それ自体すなわち資本主義的大衆文化という鉄の檻の捏造」という目的には、地球規模でコントロールされたmediaによるビートルズのフレームアップという戦略は最適なものだっただろう(もしその説が真実なら)。

この戦略はかなり深く多岐に渉り複雑だ。現時点まで連続的に存続し得ている部分と既に頓挫しているかしかけている部分が絡み合っていると考えられる。DSM5以後の精神医学の方向性が今後どういう経緯をたどるのか、それと先端的バイオ軍事技術の関係性、さらには「西欧哲学」とその外部との関係性などの指標に留意すべきだろう。またもっと身近な領域で様々な指標が見つかるはずだ。 

ただ、五月革命を始めとする当時のグローバルな「対抗文化運動」を素朴なイメージで捉えるべきではない。ロナルド・レインの『引き裂かれた自己』が1971年、そしてレインたちに影響されたドゥルーズ・ガタリの『アンチ・オイディプス』が1972年と同期しているのは無論偶然ではない。五月革命によりド・ゴールは無力化され資本主義の不可視の鉄の檻は完成へと向かった。

  熾烈な攻撃を受けたラカン(派精神分析)の変貌がここから始まる。『ミル・プラトー』がイスラエル国防軍のマニュアルとして使われたのも偶然ではない。また、「オイディプス」の解体・消滅が資本主義の言語ゲーム、生活形式をここまで延命させたことも。それはオックスフォード(またはロンドン、バーゼル、チューリッヒ、ニューヨーク)への明らかな(最初からプログラムされていた)敗北であった。その主観的な意図とは真逆の効果を引き出される形で彼らに上手く乗せられ利用されたからだ。

 だが、現在、地球上の全く新たな地平から、かつてないグレート・ゲームの逆転が生まれている。それについて書くには、今しばらく時を待たなければならない。


初稿2015年5月20日 13:23

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