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「人間と鴉・その関係」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』補遺作品     

 我が家の前は幅六米の道路を隔てて一面の林である。奥の方はうす暗くて見えず、近所の人も誰も中には足を踏み入れない。たまに犬を連れて入っている人を見かけるくらいだ。晩秋の頃は道路の落ち葉掃きがきりがない。掃くそばから舞い降りてくる。冬になって散りつくすと、裸木の間にようやくうっすらと日が入っていくらか明るくなる。

 この林の一部、実は鴉のねぐらになっている。ときおりカアカアと啼き声を聞くがあまり気にはならない。ただ一つ困った問題がある。

 我が家から林沿いに二、三十米行った道際に町内会のごみ集積場がある。早朝、鴉の群れがこのごみを狙っていっせいに飛び降りて来る。朝、ごみ捨てに行くと鴉どもはまさに朝食の真っ最中。ごみ袋をつつき食べ散らかす。袋の生ごみは道路に散乱し目も当てられぬ光景となる。黒い集団は時に不気味にも映る。

 私がいつも呆れるのはその人間を恐れぬ図々しさである。人が近づいてもほんの二、三米になるまで動じることなく、平然と食べている。直前まで行くと一斉に飛び立ち、近くの木の枝に上がってじっとこちらの様子を窺っている。その目つきたるや、鴉には悪いけれど、本当に憎らしいくらいのふてぶてしさ。狡猾そのものといった感じも無くはない。

 人間が去るとまたとび降りてきてつつき出す。満腹になると去るが、その後の道路の見るも無残な光景。自分で片付けようなどとは、さらさら思わない連中だから、泣くのはいつも人間である。

 この人間と鴉との関係、いや闘いというべきか。今までの所どうやら鴉のほうに分があったようだ。けれど最近我が家の近辺では遂にその立場が逆転した。といっても石を投げつけるとか、吹き矢を放つとか、そんな暴力的な行為に人間側が及んだのではない。要するに人間がちょっとばかり知恵を働かしたのである。

 これは多分町内会の役員の発案だと思うが、要はごみ袋の積み重ねの上に大きな青いビニールシートを被せ、周囲の四隅に石を置いてビニールシートがめくり上がらないようにしただけのことである。いたって簡単な装置である。

 けれどこの効果は大きかった。いかに鴉の大きな嘴でも厚いビニールシートにはかなわない。今ではごみ集積場に鴉の姿は無く道路はきれいに片付いて清潔そのものである。

 だが鴉といえども生きる権利はある。食べずには生きられない。鴉共にとってあのごみ集積場はずっと食料を安定供給してくれる最高の食事処だったはず。それがある朝、突然消えうせたのだから、その時の驚き、困惑、不安感は相当のものだっただろう。ビニールシートの上で右往左往していた姿が目に浮かぶ。一体どこで食料を調達しているのだろう。多少気にはかかる。でもあのしぶとい鴉のこと、またどこかのごみ集積場を探し、ちゃっかり生きているに違いない。なにも私が心配することでもないのかも。

 けれど、これは鴉の立場にたっての話だが、一抹の不安はある。この付近一帯に青いビニールシートが普及し始めたのだ。鴉にとっては死活問題にもなりかねない。今頃それこそ青くなって「鳩首」ならぬ「鴉首」をつき合わせて対策をねっていることだろう。正に“生とは苦なり”である。

 この人間と鴉との関係。あまりにも近接居住になりすぎたため、とかく問題がおきる。

 「鴉なぜなくの。鴉は山に---」の童謡にもあることだし「鴉よ。お山に帰ったら」と言いたいが、それは人間の身勝手。お山を荒らして鴉の居住空間を奪ったのは外ならぬ人間だから。
 
 さて、私がいま気をつけていること。それは散歩や買い物で近所を歩くとき、必ず帽子を被るということである。なぜなら日焼け防止の意味ももちろんあるが、それよりも食事処を奪われて頭にきた鴉共が、せめてもの腹いせに人間の頭でもつつこうと虎視眈々と狙っているかもしれないという危惧を覚えるからである。

  二〇〇六年十月十二日



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