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すべての道は仏教に通ず【#005 FCバルセロナ】           

バルサ選手による日本人差別

スペインサッカーのクラブチームに「バルセロナ」というのがあります。サッカーに詳しくない人でも、このチームが全世界のクラブチームを代表する特別な存在であることはご存知でしょう。

何年か前の話でありますが、そのチームに属している2人の有名選手が、日本滞在中のホテルの一室で、日本人スタッフの容姿や日本語の語調をバカにするような態度を取り、さらにそれを自身の動画の中で示し、大問題となりました。世界有数のクラブチームであるバルセロナの選手が関わった案件として、その影響はさらに広がっていきました。

発言の内容云々よりも、この手の問題が起きるにつけ、やはり人種差別というのはなくならないのかなと思ってしまうのです。そもそも「社会」というものが白人によって作り上げられたものであると理解されている限り、彼らにはある種の優越感のようなものがあり続けるでしょうし。。。

今回はバルサの選手2人の、日本人ホテルスタッフに対する侮辱発言です。不思議なことに、この2人の選手というのは、1人がフランス人で、もう1人はフランス人ではあるものの白人ではないらしいのです。

白人でない人が白人でない人をさげすんだということになります。実はこれもよく見られる現象です。もともと差別を受けている人が自分よりも弱い立場のものを作り、自分の立場を相対的に高めようという手法です。

いっそのこと、アジアにおいて新たにアジア人向けの「社会」というものを作ったらどうかとも考えますが、もちろん皆さんもお考えの通り、そう簡単にはいきません。アジア人同士でも差別はあるからです。組織である以上、それが日本人の中であろうと、家族内であろうと、どうしても優劣の感情がつきまといます。

結局は個人のモラルの問題に行き着くのかもしれません。人間誰しも自分と異なるものに対しては、厳しい態度で臨むものです。自分が正しいという前提に立って、その通りに事が運ばないとそれを強く批判し、自己を正当化するためにいろいろな細工を施します。それが、差別につながると思うのです。

この点に関しては、私も大きなことは言えません。そばにいる他人の成功を苦々しく思う器量の狭さなどを、やはり私も持ち合わせているからです。

もし人を差別する心がなくならないのであれば、我々一人一人がそういう差別発言をしないよう意識して生活するしかないですよね。なんとも悲しい話だけれど、そうするしかありません。

今回問題になったバルサの2選手もきっといい奴なんだと思います。いや、そう思いたいです。「日本人を標的に侮辱したわけではないんだ」という言い訳をしていましたが、きっと本心でしょう。

己の心の奥底に潜む差別意識や、ある種の優越感、鼻持ちならぬ自尊心を考えれば我々にもありえる話です。みんなで意識を高めて人種差別についてこれ以上悲しむ人が出ないよう意識的に学んでいくしかありません。

仏教と差別

さて、これに仏教バイアスをかけてみましょう。というか、そもそも仏教では差別というものをどう捉えているでしょうか。

仏教が出現した紀元前5、6世紀の、さらに数百年前から、インドでは人種の区別がなされていました。初期には「アーリア人」と「ノン・アーリア人」という2種類です。もちろんアーリア人と自称する人達が、アーリア人でない人達を蔑むという構図です。彼らは自分たちよりも低い価値を持つ人種として、「ノン・アーリア人」を社会構造の中に組み込みました。これがかの有名なカースト制度の始まりと目されています。

実際、階級制度に対して、仏教は批判的な態度を示しています。それを端的に示す有名な一節を以下に引用したいと思います。

「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」

『スッタニパータ』1-136、中村元訳、岩波書店


この経典のこの箇所はあまりに有名です。ご存知の方も多いと思います。古さから言っても、最初期の経典と目されている重要な経典です。古い経典であるということは、その内容の信憑性が高いことを示しており、おそらく教団内で「この文言」は共有・実行されていたと思われます。

仏教は、その後残念ながら、差別的な思想に加担したと言われても仕方がないような物言いを経典内に残すようになります。

仏教の根本に「業と輪廻」の思想というものがあります。これは簡単に言えば、前世の自分が悪い行為をたくさんしたから、現世において身分が低く貧しい生活をしているのだと理解させることができます。

この思想は、倫理的に「現世」を誠実に生きるためには、素敵な「モチベーション」となりえますが、階級差別を固定化するものとも考えられたり、また現在身の回りにおきている様々な不幸も、この「業」によるものとされてきた経緯もあります。

法相の徳一・天台の最澄の論争も有名です。誰もが成仏できる「一乗」か、声聞・縁覚・菩薩という三つの道、すなわち「三乗」に分かれており、誰しもが成仏できるとは限らないのだとする説かで激しい論争が起こりました。

さらに、衆生にはそれぞれ本来的な素養が定まっていて、中には成仏できない者もいるのだとする「五姓各別説」なる考え方まで登場します。

でもしかし、仏教は根本的には「差別」的な思想はないと考えます。少なくともブッダ在世時を含めた初期の時代には、特に差別はなかったと思います。

もし差別が横行していて、差別することが当時の一般的な考え方であったなら、必ず経典などにその片鱗が残されるはずです。それが少しも見られないことからしても、仏教は本来的には差別のない宗教であると理解してよいでしょう。


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