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『ザ・ホエール』偏見のない人物造形。

映画『ザ・ホエール』主演のブレンダン・フレイザー・・・今年のアカデミー賞で 主演男優賞 を受賞した彼の芝居のどこが素晴らしかったかって・・・それは彼が「椅子に座ってこちらを見ている」だけで、もうこの映画のテーマとか、彼が演じるチャーリーの悲しみが伝わってきてしまうという点でしょう。
 
そうしてもう一点。それは21世紀のアカデミー賞において需要視されていることなんですが、彼の芝居には「偏見や差別的な視点が入っていない」という点です。
 
太った男性は昔から映画の中で、「強欲」であったり「怠惰」であったり「愚か」であるように演じられてきました。ジャバ・ザ・ハットですよねw。
なぜ彼は太っているのか?その理由は彼が「強欲だから」「怠惰だから」「愚かだから」・・・しかし肥満は遺伝子由来のものであって、性格的な傾向と結びつけること自体これは偏見なわけです。

こういう肥満に対する偏見の演技は、人種偏見、性別に対する偏見、職業に対する偏見、貧富の差による偏見、宗教・無宗教に対する偏見などなどとともに、舞台でも映画でも、俳優たちによって面白おかしく演じられてきました。

そう、それらの偏見は俳優たちの「役作り」の中に深く組み込まれていたんです。
 
ですが、ブレンダン・フレイザーは体重272キロの彼チャーリーを偏見に満ちた演技では演じませんでした。彼が演じたチャーリーはモンスターではなく、理知的で、繊細で、時には勇敢で、時には臆病で、そして愛に満ちている。
それがこの作品を深く感動的なものにしています。

役の人物の悲しみと一体化する。

チャーリーの芝居で凄いのはさっきも書きましたが「行動」ではなく、そこで起きていることに静かに「反応」している芝居です。 彼が何かをやったり喋ったりしている時間よりも、無言でいる時間のほうが多くを物語っていたりするのです。

おそらくブランドン・フレイザーは脚本上のチャーリーのことを頭で理解してそれを演じているのではなく、もっと深い部分でチャーリーの悲しみと一体化しているのでしょう。

それはおそらく彼自身の人生の中で同種の悲しみを経験したことがあって、それを軸にチャーリーを演じている・・・彼の経歴を調べてみると分かりますが、彼は『ハムナプトラ』などでイケメン映画スターになった後に、セクハラ被害を告発したことで業界から追放され、鬱を患い、その時期に肥満になったそうです。
チャーリーのように死の危険がある272キロまで太ったわけではないですが、彼にはチャーリーのことが痛いほど理解できたに違いありません。
 
アカデミーの時に『ザ・ホエール』が本当に250キロ超えの当事者の俳優を使わなかったことに対するバッシングがあったそうですが、いやいやいやw。ブレンダン・フレイザーは充分当事者だと言えるのではないかとボクは思います。
 
それは彼の芝居を見ればわかるじゃないですか。
 
そもそもこの物語はもともと舞台作品だったのですが、その舞台の脚本家のサミュエル・D・ハンター本人の経験をもとに書かれたものだったらしいです。
脚本家自身が実際に体験した悲しみを、さらに同種の体験をした俳優が演じる・・・チャーリーの芝居がリアルで、しかも超イキイキと演じられている理由はそこでしょう。アカデミー主演男優賞、納得の芝居ですよ。

せつなすぎる「看護師リズ」の役作り。

偏見のない芝居で素晴らしかったのはチャーリーだけではありません。
看護師リズを演じたタイ生まれの女優、ホン・チャウの芝居も本当に素晴らしかったですよね。
最近のアメリカ映画ではアジア人の俳優をキャスティングすることも重要で、アジア人俳優であるホン・チャウが大きな映画の重要な役で素晴らしい演技を披露することも誇らしいことだと思います。脚本上ではこの看護師の役はアジア人の設定ではなく、彼女の演技の素晴らしさによって勝ち取った役だったそうですから。
 
でもボクが感動したのは彼女が「看護師」という役を超リアルに演じたことです。
愛する兄を自殺で失った彼女が、その恋人の貧しい男性の看護をする・・・これも役作りしてみると難しい役ですよ。

看護師の女性は昔から「白衣の天使」として演じられることが多く、それはそれで偏見なのだとボクは思っています。なのでチャーリーを乱暴に𠮟りつけたり、彼の太った腕に頭をうずめてテレビを見てみたり、彼のために病院から肥満用の高価な車椅子をチョロゴマ化してきたり、それらの芝居をこんなにもリアルにイキイキと演じていることに舌を巻きました。
 
とくに肥満で死にそうになっている彼に頼まれてケンタッキーみたいなフライドチキンの特大のバーレルを買ってくるというくだり・・・これは「白衣の天使」の行動としてはちょっとおかしいじゃないですか。このホン・チャウの芝居は深く感動的でした。
 
彼女はチャーリーに死が近いことを知っているし、ある意味彼の体重が増えてゆくことは彼自らが選んだ緩慢な自殺であることも理解しているんです。そしてなによりもチャーリーの人生はチャーリー自身が決めるべきだという事も理解している。
だから彼女は彼女の中で2つに引き裂かれているんです。チャーリーの体調を計測してその結果を伝えて自分で考えてもらう、それだけが彼女にできることなんです。なんて悲しい役なんでしょう。
 
彼女はチキンの特大バーレルを買ってはきますが、遠くの机の上に置いたままその件には触れません。で、彼の腕にしがみついてテレビを見ています。そう、それが彼女の「食べないで」という精一杯の意思表示だったんです。
でもフライドチキンの匂いがしますからね、チャーリーは食べたくて仕方がありません。彼はリズに「ねえリズ、頼むよ」と遠回しにお願いします。仕方なくリズはチキンを取りにゆき、チャーリーに渡して、そしてチキンを貪り食う彼の腕にまた頭をうずめるんです。
 
こんな複雑でリアルな看護師の芝居、見たことないですよ。 ホン・チャウ、本当に素晴らしい「看護する人」の役作りだったと思います。

怒れるティーン娘、エリー!

そしてチャーリーの娘エリーの芝居も、偏見のない素晴らしい芝居だったと思います。自分と母親を捨てたチャーリーに対する怒り!怒り!怒り!
 
この芝居については町山智浩さんのYouTubeで、女優の藤谷文子さんが「ティーンの女の子をモンスターみたいに描いてる!愛がない!ひどい!」と怒ってらっしゃってましたが、ボクはそうは感じなかったんですよね。 町山さんもそれに対してはご自分のお父様との経験を例に出して「私にはわかりますけどね」とおっしゃってました。
 
子どもの頃に「親に捨てられた」という経験によって、エリーは世界を非情な場所として把握しています。なので彼女も人に対して非情にふるまうのです。彼女のやることはメチャクチャで、チャーリーの金を巻き上げようとしたり、宗教勧誘の青年に大麻を吸わせてみたり、最後はチャーリーに睡眠薬を飲ませて大変なことになってしまいます。
 
だがエリーは宗教勧誘の青年が絶望していることを「バカみたい」と思い、笑い飛ばします。そして青年の絶望が杞憂に過ぎないことを証明して見せます。そしてチャーリーが恋人の死に絶望して緩慢な自殺をしようとしていることを「バカみたい」と思って、ふざけるな!ここまで自分の足で歩いてこい!と玄関口でチャーリーをけしかけます。。。
こんなエリーの中にチャーリーは、素晴らしく善良な女の子の姿を見て、それは彼女の投げやりなエッセイの中にもしっかり見出すことができて、チャーリーは彼女のことを心の底から誇りに思うのです。
 
この芝居のどこに愛がないのでしょうか?
 
それはおそらく90年代的な芝居、ひどい行動をしながらその直後に一瞬だけ後悔して見せるような「ほんとうは愛がある人間なんだ」という説明的な古い芝居をエリー役のセイディー・シンクが演じていないからでしょう。
 
90年代には「悪人にも事情がある」という芝居がリアルだとされていました。
悪人が悪を行うのは本人のせいではなく、彼彼女が抱えているトラウマのせいだ、悪人も被害者なんだ!という演技です。
「本当は私だってこんな事したくない、でも、でも・・・!」みたいな芝居ですよね。あれはここ数年、映画の中でかなり見なくなりましたよね。

 
町山さんが言ったように、親に酷いことをされた子は単純に親が憎いんです。だって理不尽に捨てられたんだから。怒りまくって正解ですよ。それは「本当は好きなんだ、でも!」みたいなナルシスティックな余裕のある状況じゃないですから。
20世紀のこの手のドラマでは、親に酷いことをした子供はラストで「本当はやりたくなかった」ことを告白するか、反省して改心するかが多かったと思います。
 
それをこの『ザ・ホエール』では告白も反省も改心も無し。父と娘が人間関係をリセットして、新たな関係を0から結び直すという芝居で描いています。その第1歩でバーン!とこの映画は終わるのです。そりゃ泣きますよね。

宣教師トーマスの芝居。

ここで最後に宗教の勧誘の青年トーマスの演技を絶賛することができたら、ブログがきれいにまとまるのですが、残念ながら彼の芝居は古くて、さまざまな偏見が入り込んでいたように思います。それは彼が「怪しい人物」を演じようとしてしまったから。
 
チャーリー、リズ、エリーの芝居は極めて主観的に演じられています。彼ら彼女らの悲しみと一体化した状態で演じられているので、主観的なんです。ですがトーマスは怪しい人物を演じようとしている、つまり客観的なんですよね。
 
基本、いかにも宗教の勧誘の人のように見えるように演じようとしているし、シーンによっては宗教の勧誘の人としてはおかしく見えるように演じようとしている。視点が俳優の外にあるんですよね。古い。これはちょっと残念でした。
ティモシー・シャラメとかが演じてくれてたらなあ・・・きっと最高だったのに。
 
トーマスの役って脚本上ではもっと重要だったはずだと思うんですよ。人目を徹底的に避けて生きてきたチャーリーがなぜトーマスを歓迎するのか。それには何か理由があったはずだと思うのですが、完成した映画にはそれは映ってないんですよね。
 
それはボクはチャーリーの死んだ恋人アランが、トーマスと同じカルト宗教だたので、ついトーマスに彼の面影を見てしまってちょっと話したくなった、という事だと思うんですよ。
でもあのトーマスの「いかにも宗教」みたいな怪しい芝居では、無垢だったトーマスの面影を見出すのは難しいですよねえ。だってアランは自殺してしまうくらい無垢だったわけですから。
 
あれ、トーマスにアランの影が少しでも見えていたら「いやいや、心配しなくても僕はキミに惹かれたりしてないよ」のくだりとか、もっと切なくなったんだと思うのですが・・・うむむ。

すっかり長文になりました。まとめます。
とにかくこのように『ザ・ホエール』は登場人物たちの心の小さな揺れを、物語として描いてゆくような映画だったため、人物はとことんリアルに、フェアに、なるべく偏見なく演じられ演出されています。

偏見の芝居は人物を殺すし、時には作品全体をも殺したりします。

偏見を元にした役作りで「おもしろ」を演じる、というのはこういう意味でもう時代遅れになっているのだと思います。
偏見なく人物を演じるには、人を出自やスペックで判断するのではなく、一人一人の個別の人間として理解し、そして「客観的に見た目を工夫して演じる」のではなく、「主観的に人物の情感と一体化して演じる」ことです。
 
そうして初めてわれわれ観客も人物の情感と一体化して、心を震わせることができるのです。
 
『ザ・ホエール』はまだギリ劇場でやってるみたいなので、ぜひ大画面でそのディテールの豊かさを体験してみてください。超オススメです。
 
小林でび <でびノート☆彡>


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