見出し画像

『ドライブ・マイ・カー』と「超目的」。

「超目的」は必要か?

先日、映画『ドライブ・マイ・カー』のパンフレットを読んだ俳優の小林敬さん(親戚にあらずw)がツイッターで「岡田将生氏がインタビューで『超目的を軸にした役作りを監督に禁じられた』と仰っているのだ。私は激しく困惑した。」と叫んでいたので、そのインタビューを読んでみると・・・たしかに

「軸を作ってから、役の幅を広げていく」という普段やっているベースづくりをせずに「シーンによって顔を変えよう」と濱口監督と話し合った、と書いてあり・・・度肝を抜かれました。

なぜならそれはボク自身もここ数年、俳優たちに「超目的を軸に役作りしない方がいいよ」というアドバイスを折々してきたからなのです。でもコレ言うと俳優さんに変な顔をされることも多いんですよねー。「超目的」を使って演じておられる俳優さんが多いので・・・でもボクはここ数年静かに強く思っているのです。

「超目的」を軸にした人物造形って、今の時代にフィットしにくくなり始めてませんか?と。

画像1

画像2

「超目的」とは?

「超目的」とはスタニスラフスキー・システム系でよく使われている演劇用語で、「その役の人物が人生において求めている目的」や「芝居全体のテーマ」のことを指します。

俳優たちがこの「超目的」や「シーンにおける目的」を意識して脚本分析すると、役を把握しやすくなったり、役同士の芝居がカチッと噛み合ってシーンが機能することが多いので、非常に有効とされている手法です。世界的に。

60年代〜70年代にはメソード俳優たちが「役の人物の超目的」と「社会の現実」の間で悶え苦しむさまを演じて絶賛を浴びました。

80〜90年代前半はまさに「自己実現万歳!の時代」で、映画やドラマの登場人物たちはそれぞれの「超目的」を掲げてしのぎを削り合いました。

90年代後半〜00年代は「トラウマ」の時代です。自己実現に疲れた人々が等身大の自分に向かい合って「トラウマをはね除ける」ことを「超目的」とした役作りが・・・例えば『X-メン』などのヒーローもの映画などに深みを与えるのに一役買いました。

パチーノ

画像4

x目ん

時代の空気が変わりつつある。

ところがここ10年くらい、この「超目的を軸に脚本分析する」手法を使って演じている俳優を見ると、ボクは「あれ?」と思うようになったんですよね。それは以下の3点・・・

①目的の対立を描くことにより、役同士の対立構造が強調されすぎること。

②人物の行動が目的に向かってあまりに直線的なってしまって、リアルな人物としてのディテールが乏しくなること。

③自分の演じる人物の目的に向かいすぎて、俳優の意識が内向しやすい、一人芝居に陥りやすいこと。

時代の空気が変わってきて、個人の「超目的」を実現することが、必ずしも物語の結末にふさわしく感じられなくなってきたのかもしれません。(もしかしてそれは観客たちも明確な「人生の超目的」を持てなくなったからかも・・・)

かつての映画ドラマの登場人物たちはみな「目標」や「目的」を掲げて、しかもそれを「私の夢は○○を○○すること!」とかセリフやモノローグで高らかに宣言していたりしました。そういうシーンって最近見なくなりましたよね。

では『ドライブ・マイ・カー』の登場人物たちはどうでしょうか?
ドライバーみゆきの超目的はなんでしょう? 家福は? 音は?・・・彼らはみな目的や希望を見失って人生を彷徨っているように見えます。

では我々観客は彼らを見て「ハッキリしない人だ」と退屈に感じたでしょうか? いやいや逆です。むしろ我々は彼らに強く強く惹きつけられました。目が離せなくなりました・・・「人生の目的を見失って人生を彷徨う彼らの姿」に切実なものを感じたからです。

画像6

画像7

画像8

トニー・スタークの人物造形の話。

話題がちょっとそれるかもしれませんが、ちょっとだけ映画『アイアンマン(2008)』の話をさせてください。ボクはこの映画のロバート・ダウニー・Jr.が演じるトニー・スタークが大好きなのですが、非常に複雑な、混乱した人物として演じられているんですね。一貫した「軸」がない。

それに対して『アべンジャーズ』や『スパイダーマン』に登場するトニー・スタークは構造がもっと単純で「わかりやすい軸」があるんです。ロバートがすべてのシーンで「目的」や「超目的」を意識して演じられているのがハッキリと分かります。芝居が目的に向かって直線的なんですよね。表情や動作が「説明」「記号」に満ちていて分かりやすいんです。なので『アべンジャーズ』『スパイダーマン』においてトニー・スタークは物語上の仕掛けとしては機能するのですが、人物としての複雑&立体的な魅力は『アイアンマン』の足元にも及びません。

『アイアンマン(2008)』でのトニー・スタークは「目的」や「超目的」を見失って彷徨っているんです。
だから『アイアンマン』のロバートの演技は複雑で混乱していて・・・そして魅力的なのだと思います。それが暗黒のキャリアのど真ん中を彷徨っていた当時のロバートの人生を反映した偶然の産物だったのか、それともトニー・スタークが主役の時と脇役の時で演技法を使い分けたのか、それはわからないですが(笑)、俳優の「目的」との関わり方の違いが役の人物像のディテールの豊かさに大きく影響を及ぼすことの絶好の例になっていると思います。

画像9

画像10

画像11

目的を見失って彷徨い続ける人物。

『ドライブ・マイ・カー』のたとえば家福が彼の妻・音の浮気現場を見てしまったシーン。彼はなぜそのままスーッと家を出たのか。・・・それは「目的」「超目的」で分析すると、目的が「愛する音を失いたくない」で超目的が「これ以上過酷な人生を生きることに耐えられない」と分析することが可能かもしれません。

でもそれは北海道でのクライマックスまで見た我々だから感じることで、この情事のシーンを初めて見たときの我々には家福の行動は理解できなかったはずだと思います。実際このシーンで、家福を演じる西島秀俊さんの芝居からは判断つかなかったです。「説明的・記号的」な演技が皆無だったので。このシーンを見た我々観客は混乱し、そして物語に引き込まれて行きました。

俳優は「目的」を意識しながら演じていると、ついそのことを「説明的・記号的」に芝居に盛り込んでしまいます。そして芝居は分かりやすくなるんですが、行動が直線的になり、様々なディテールを失ってしまうんです。

でも人間ってそんな直線的な感じでしょうか? 我々は同時に矛盾するようなこと考えるし、もっと混乱した感情を抱えてるものじゃないですか。

西島さんは「目的を意識して演じる」よりももっと複雑な芝居をしていたと思います。音役の霧島れいかさんも、二人とも今まで見たことがないくらいディテール豊かな芝居をしていました。

まるで実在の人間のように不可解なディテールに溢れた彼ら夫婦。家福が、音が、お互いに慎重にコミュニケーションを取り合うのは、それはお互いのことが把握しきれていないからだし、お互いに対する自分の感情すらも混乱しているからです。だから言葉を投げかけて探りを入れるんです。それは我々人間が親しい人間に対してもやっている普通のコミュニケーションのあり方と同じです。

家福・音・みさきは「目的が無い人物」としてではなく、「目的を見失って彷徨い続ける人物」として演じられていて、それは現代を生きる我々の日々の生活そのものです。

そう。この映画の3時間、観客も家福や音やみさきと一緒に彷徨っていたのです、赤いサーブ900に乗って。

画像13

画像12

演じながら発見する。

スクリーン上の高槻はバラバラな男でした。家福の台詞「君は、自分を上手にコントロールできない」にある通り、シーンごとに別の「目的」に向かって直線的に行動するバラバラな人間として演じられていました。

濱口竜介監督は岡田将生さんになぜ役の「軸」である「超目的」を演じるのを禁じたのか。なぜ各シーンを「軸」でもって串刺しにせずに、それぞれ「別の顔」で演じることを推奨したのでしょうか。

先日のブログ【「濱口メソッド」の響き合う芝居。『ドライブ・マイ・カー』】でも書いたのですが、濱口監督の現場では本読みの時に俳優が台詞にニュアンスを込めることを禁止しているそうです。それによって本番で俳優が初めて自由に芝居した時に、相手の台詞が豊かなディテールを帯びていることに反応して自分の台詞も「自然発生的に」豊かなディテールが生まれてくることが期待されているのだそうです。

だとしたら、もしかしてこの「軸」「超目的」の問題も同じなのではないのかな?と思ったりするんです。俳優たちがそれぞれに「軸」「超目的」を用意して演じて分かりやすく演じるのではなく、その手法を禁じることによって俳優たちが芝居の中で「自然発生的に」人物の「軸」や「目的」を発見することが期待されていたのではないか?と。

それはもちろん成功しているシーンも失敗しているシーンもあるのでしょうが、『ドライブ・マイ・カー』の素晴らしい芝居の数々は、そうやって生まれたのではないか、とボクは思うのです。

「目的」「超目的」との新しい、もっともっと豊かな関わり合い方が生まれようとしているのかも・・・ワクワクしますね。

小林でび <でびノート☆彡>

【関連記事】



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?