見出し画像

『ドゥ・ザ・ライト・シング』と「視野の狭い演技法」

ミネアポリスで起きた黒人男性が警察官に窒息死させられた事件・・・あのあまりにもショッキングなニュース映像を見て、ボクは真っ先に1989年の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』のクライマックスシーンを思い出しました。
うわあ、当時と何も変わってないんだなアメリカって、いや世界って。

なぜこのような対立や差別が起きるのか?
この映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』は人種間の対立や差別意識が発生してゆく過程を詳細に描写しています。この映画ほどそれをリアルに映像で描き切った作品はないと思います。

この映画の人種間対立の描写がなぜ30年経った今でも人々の心をえぐり続けるのか・・・それをスパイク・リー映画の俳優たちの「演技法」の面から紐解いてみましょう。

この映画の登場人物たちは自分の行動や主張が「ライト・シング(正しいこと)」だと信じて疑わない人たちです。

ブルックリンの黒人青年バギンは、自分が毎日通っているイタリア系が経営するピザ屋の壁にイタリア系のヒーローたちの写真が飾ってあるのが我慢できません。「黒人のヒーローの写真を飾れ!ここは黒人街だぞ!この店の客はみんな黒人じゃないか!敬意を払え!」

それに対してイタリア系の店主サルは「黒人の写真は自分の家に飾りな。オレの店にはオレの飾りたい写真を飾る」と返します。

バギンも店主も自分の主張が「ライト・シング(正しいこと)」だと心の底から思っているので、相手の反抗的な態度がお互いに許せません。結果、店主はバギンを出禁にし、バギンはこのピザ屋のボイコット運動を始めます。そしてこれが暴動の火種になってゆくのです。

なんとシンプルで力強い人種間対立の発生の描写でしょう。

黒人もイタリア人も韓国人も「それぞれが自分の正義を心の底から信じている」というと聞こえがいいですが・・・それは別の言葉で言い換えると「視野が狭い」ということに他なりません。

そう『ドゥ・ザ・ライト・シング』ではすべての登場人物が「視野の狭い人物」として演じられています。

自分のコミュニティや自分の立場からでしか世界を見ることをしていないのです。他の立場から見ると同じ世界が別の意味を持って見えるかも、という発想がない。だからこそ自分の思う「ライト・シング(正しいこと)」が唯一無二的に正しいと信じることができるのです。

例えばレディオ・ラヒーム。
彼は自分の心酔する音楽(パブリック・エネミーの「ファイト・ザ・パワー」)を巨大なラジカセで大音響で一日中鳴らしながら街中を練り歩きます。いや、彼からすると親切なんです。彼が素晴らしいと思う音楽をみんなにも知ってほしい、聴かせてあげたい。でも街の人達からするとそんなの五月蠅いだけ、単なる雑音なんです。でメチャクチャみんなに怒られ続けるんです。
でもレディオ・ラヒームは反省なんかしない。「LOVE」と「HATE」をもって爆音の音楽で街中の人達を殴りまくるぞ!という決意をする。それが「ライト・シング(正しいこと)」だと信じてる・・・ああ、なんという視野の狭さ!

だいたい普通の映画だったら、メイヤー(市長)やマザー・シスターや赤い壁の前の隠居黒人3人組みたいな「黒人街のヌシ」的なキャラクターって、もっと視野の広さを持って街を見つめていたりするものじゃないですか。「我々は争うべきではない」みたいな。でもこの映画では全くそんなことないんですよね(笑)。

映画の冒頭あたりでは市長は「ドゥ・ザ・ライト・シング」という教訓的な言葉を若者たちに伝えたりするのですが、その言葉はさっきも書いたようにこの街に決定的な対立を生む「視野の狭さ」そのものなんですよね。

マザー・シスターに至ってはイタリア人のピザ屋が燃やされた時に「燃やせ~!」と叫んでさえいます。え?マジで?って思いましたよ。そして悲しくなりました。
そして赤い壁の前で毎日井戸端会議をしている隠居黒人3人組たちも、金儲けが上手な韓国人に対する怒りを語り、黒人差別に関する陰謀論を語ります。

でもね、この彼らの「視野の狭さ」こそがかれら登場人物たちの魅力の源泉でもあるんです。

どの人物も「視野が狭い」ゆえにまた愛おしい。それは彼らが我らの隣人であり、我々自身でもあるからです。

『ドゥ・ザ・ライト・シング』の俳優たちは徹底的に「視野の狭い演技法」で演じています。
俳優たちはどんな小さなリアクションであっても客観的視点で演じません。常に主観的に自信満々に反応します。

そしてこの徹底した「視野の狭さ」が人物を魅力的に描写し、世界をリアルに描写しています。「視野の狭さを演じる演技法」がこの映画を傑作にしているのです。

この映画のラストシーン、主人公黒人青年ムーキーがピザ屋のイタリア系の店主サルに「給料をくれ」という名シーン。このシーンは普通ならお互いがお互いの立場を少しは理解して、なんらかの歩み寄りをしたりするものじゃないですか。でもこの映画ではそれは起こりません。だって現実世界はそうだから。
お互いがお互いを最後まで理解できない。愛情や愛着があったとしても・・・俳優たちは徹底して相手に対する無理解を演じます。そこにこの映画独特の感動があるんです。

「人物の視野の狭さを演じる」・・・という演技法。
これを演じるには、俳優はストーリーを俯瞰する客観的視点を忘れて、役の人物の中に完全に入ってしまって演じることが大切です。
俳優自身の人生観や価値観をいったん捨てて「役の人物の目で世界を見る」のです。で世界に瑞々しく反応する・・・これがこの演技法で演じられた人物がキラキラと魅力的に輝く理由です。

これは昨年の映画『ジョーカー』で人と人との対立・差別・ディスコミュニケーションの現実を超リアルに切実に描いた演技法でもあります。

そしてなによりも、先週Netflixで配信開始されたスパイク・リー監督の新作映画『ダ・ファイヴ・ブラッズ』(大傑作!)もこの「視野の狭い演技法」で演じられているのです。なので先が読めない!超エキサイティングでした。

「視野の狭さ」・・・これって要するに養老孟司先生の言うところの「バカの壁」にほかならないんですよね。「人間同士は根本的には理解しあえない。そして人は自分が理解できない相手のことをお互いにバカだと思う」「そしてそのバカの壁は誰にでもある」という。

この映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』を撮ったスパイク・リー監督は、徹底して差別や対立を描く作家なのですが、同時に、世間的には差別を描いた傑作と称される『ドライビング・ミス・デイジー』や『グリーンブック』などの映画を厳しく批判する人でもあります。

ではこれらの映画において、登場人物たちはどのように演じられているのでしょうか。

『ドライビング・ミス・デイジー(1989年)』の白人女性デイジーは黒人の運転手に対してある種の偏見を持っているのですが、それが偏屈な態度として客観的視点で演じられているんですよね。つまりデイジーを演じる俳優はデイジーの視点でもって世界を見ていなく、デイジーが間違っている、ということを知りながら演じてしまっているんです。メタな視点がある・・・「視野が狭い演技」の逆ですね。

つまり「差別とは間違った人がするのだ」という描写になるのですが、しかし残念ながら現実世界に於いて差別感情とは偏屈な人間だけが持つものではありません。優しくて思いやりのある人間だって持ってしまうものです。

あえて間違った態度を演じて解決されるのを待っている状態、これをボクは「ツッコミ待ちの演技」と呼ぶのですが、この映画は全編「ツッコミ待ちの演技」で演じられています。
現実の人種間の対立がこんな感じだったらホント解決するの簡単ですよね。

そして『グリーンブック(2019年)』においてはその「ツッコミ待ちの演技」にさらにターボがかかっています。 黒人のピアニストの俳優と、イタリア系の運転手の俳優の、その両方が間違った演技をしまくって、お互いにツッコミを待っているんです。

車の中でチキンを食べるシーンが顕著ですよね。イタリア系の運転手は必要以上に下品な演技でチキンを食べ、黒人のピアニストは必要以上に神経質な演技でチキンを食べている・・・まさに「ダブル・ツッコミ待ち」状態です(笑)

「ボケ・ツッコミ」の構造とは、つまりどちらかが間違っていて、どちらかが正しいという構造です。正しい人が間違った人を注意する、というのがツッコミです。つまり問題は解決すること前提で存在するのですが・・・現実はそんな簡単なことではないですよね。

スパイク・リー監督は世界をそう見ていません。「間違った人と正しい人がいる」という考え方そのものが間違っているのだ!と。その考え方のせいでお互いが相手をバカだと思って相手を修正しようとする。それこそが対立なのだと。

そして6月1日、スパイク・リー監督がツイッターにこの『ドゥ・ザ・ライト・シング』の警察官に黒人青年ラジオ・ラヒームが窒息死させられるシーンと、今回のミネアポリスの事件映像をミックスした動画をアップしました。

あまりにもショッキングなのは・・・そこに映っている白人警官たちの「俺たちはドゥ・ザ・ライト・シングしている」という表情です。

ここにきっと対立の、差別の原因があります。

ここ数か月間、日本でも様々な対立が起こり、ツイッターとかで地獄みたいに罵り合ってましたよね。

あれもそれぞれが自分の思う「ライト・シング(正しいこと)」でお互いを殴りあうという・・・自分のコミュニティの正義でもって別のコミュニティの人達を修正しようとした結果、お互いが悪にしか見えなくなったりバカにしか見えなくなったりした結果の対立だったと思います。
ようするに「視野の狭さ」こそがこの無益な争いの原因であり、そこから抜け出すためには視野を広げるしかない。他者の視点を学んでゆくしかないのです。

そして世界がそうなっている以上、俳優たちは人物を演じる時、その人物の「視野の狭さ」を演じるべきではないでしょうか。
だってわれわれは誰もが狭い視野でこの世界を見ているのだし、その視野の狭さこそがその人物の言動・行動の動機の多くを担っているのですから。

小林でび <でびノート☆彡>



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?