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小西行長と馬門石の里🌹宇土市歴史さんぽ⑥ 【近世宇土城】

今回は熊本県宇土市散策の6回目です。宇土市には二つの城があります。中世宇土氏&戦国名和氏の居城・中世宇土城と、秀吉の九州平定後に宇土領主となった小西行長の本城・近世宇土城です。今回6回目は近世宇土城跡の散策レポートになります。
※今回は7000字に迫る長文となってしまったため、お時間ある際にお読み頂けますと幸いです🙇‍♀️

今回の散策地はここ!

散策ルート紹介

最初の画像で中世宇土城と近世宇土城との位置関係を、2番目、3番目の画像で今回の近世宇土城の散策ルートを赤字で示しています。

画面右の赤ピンが今回散策する近世宇土城。画面左の丘陵が中世宇土城。距離にして500mの目と鼻の先に位置する
今回の散策ルートは、近世宇土城の本丸跡周辺です。
スタート地点から🅿️駐車場までは車で入ります。
散策ルートを近世宇土城案内板の縄張図に示してみた

近世宇土城本丸への入り口は上記地図上のスタート地点になるのですが、道標が立っているにも関わらず本当にここからかな?と最初不安になりました😅というのも道幅は車一台やっと通れるくらいで、向かって右側の二の丸跡は現在は広大な墓地になっていて、どう見ても墓地の入り口にしか見えなかったからです。これから行ってみようかなと思われる方も不安になると思いますが、細い道を暫く進むと10台くらいは停められそうな駐車場が現れますのでご心配なく。参考情報でした。

近世宇土城

さて、細い登城口から緩やかな坂道を車で進むと程なく、左手に宇土市教育委員会の立派な案内板が現れます。↓ ちょっと長いですが、散策の事前知識として下記に引用しますね。

    キリシタン大名•小西行長の居城
       近世宇土城跡(城山)

▪️キリシタン大名•小西行長
永禄元年(1558)に堺の豪商•小西隆佐の子として京都で生まれ、秀吉の側近として水軍を率いて活躍。国衆一揆(肥後の武士層が起こした反乱)後の天正16年(1588)宇土、益城、八代などの肥後南半部(約14万6千石)の領主として宇土を本拠としました。
 入国翌年の築城開始後、文禄•慶長の役(1592〜1598)で先鋒として2度にわたり朝鮮半島に出陣しており、実際に宇土で活動した時期は一年半程度と考えられています。慶長5年(1600)、西軍に属した行長は関ヶ原合戦で敗戦。京都六条河原で処刑され、42歳の生涯をとじました。
▪️近世宇土城跡の概要
織田信長や豊臣秀吉の時代に築かれた礎石建物や高石垣などで構成される規格化された城を豊織系城郭と呼んでいます。宇土城は熊本を代表する豊織系城郭で、江戸初期に2度にわたる破却を受けたため不明な点がありますが、縄張り(城の測量図)の検討や発掘調査の成果、絵図の検討などから往時の宇土城の姿を推定することができます。
 宇土城は幅約20mの堀で囲まれた本丸(標高約16m)を核として、二ノ丸や重臣が居住した三の丸を幅約30〜40mの大規模な堀で防御し、本丸北側に家臣屋敷群を整備するなど、本丸を中心とする堅固な城郭でした。さらに、本丸の北側には、緑川河口部に通じる運河が開削され、船が行き来したと考えられています。まさにイエズス会宣教師から「海の司令官」と呼ばれた行長らしい城といえます。
 関ヶ原合戦後、清正は宇土城を自身の隠居所とするために大規模な改修を行いましたが、隠居することなく慶長16年(1611)に亡くなりました。清正の死の翌年、幕命により城は破却され、寛永14年(1637)の天草島原の乱後にも徹底的に破却されました。
▪️本丸の発掘調査
 本丸の発掘(昭和53〜57年)の結果、門跡や礎石建物跡、排水溝跡、石垣などの城郭遺構を検出し、上層期遺構と下層期遺構の2時期の遺構の存在や、本丸の水平プランがおおむね明らかになりました。
 上層期遺構は加藤清正の改修に伴う盛土(1m以上)や石垣普請などによって内部に完全に埋めこまれたことが判明しました。
 また、瓦や国内製•中国製の陶磁器など、当時使われていた貴重な品々が豊富に出土しました。
▪️塩田家臣屋敷群(城山塩田遺跡)について
 家臣屋敷が存在したとされる本丸北側一帯の古城町字塩田には、明治時代の字図や終戦後撮影の航空写真から、碁盤の目状に堀がめぐる屋敷群跡や運河の跡と想定される痕跡が残されていました。
 このことを検証するための発掘調査(平成12年)で屋敷地を取り囲む大小の堀跡を検出し、建物の部材や日常生活で使われていたとみられる陶磁器が出土。幻の家臣屋敷の存在が実証されました。南北方向の6筋の道は等間隔(約40間[約72m〕)で敷設、その道沿いに整然と並ぶ屋敷地は間口が狭く奥行きが長い長方形(短冊形地割)で、極めて計画的な造成が行われたことが判明しました。
▪️近世城下町の形成と特徴
宇土城下については、16世紀の名和氏段階にある程度できていたとみられる城の東側の町筋を城とセットで整備し、本町筋や新町筋沿いには商工業者らが居住していました。さらにその東側には、物流の要だったと考えられる宇土川(船場川)や「外構(そとがまえ)」として城下町を守る石ノ瀬城(加藤軍による宇土城攻め[1600年]の激戦地)が配されました。
 行長入国以前の肥後においては到底考えられなかった城と家臣屋敷、町屋がセットになり身分的な階層関係が反映された城下町が、いち早く宇土の地に出現したことは歴史的に重要なことです。
 行長が理想とする領国経営の拠点として機能するはずだった宇土城。宇土を中心とし、九州全体の支配まで視野に入れていたと考えられる行長の夢は、関ヶ原合戦の敗戦により志半ばで途絶えたのでした。

例によってここで宇土城の概略と歴史について補足したいと思います💡肥後国は豊臣秀吉の九州平定後の1588年に北半分は加藤清正、南半分は小西行長に与えられましたが、近世宇土城は翌年の1589年に小西行長により築城が開始されました。その10年後の1600年に行長は西軍の主力として関ヶ原に在りましたが、東軍につき領国にあった加藤清正は小西行長の宇土城を攻めます。清正はまず城下町を守る外構の城•石ノ瀬城を抜いて城下町を進み宇土城に至り、小西軍を本丸と二の丸に追い詰めます。宇土城の小西軍もよく守りましたが最後には開城し、城代•小西隼人(行長の弟)の切腹を条件に家臣は助命されました。その後、加藤清正は天草と球磨郡を除く肥後一国の領主となります。文字だけでは分かりにくいと思うので、市史に描かれていた概略図が分かりやすかったので書き写してきた図を以下に載せます↓

宇土散策1回目を読んで頂いた方はピンと来たかも知れませんが、清正がまず破った外構の石ノ瀬城は、馬門石の石橋があった付近、宇土細川藩蔵屋敷跡地に建っていたのです💡船場川は石橋から10数メートル先でぐるっと湾曲していましたが、なるほど行長時代は運河であると同時に、石ノ瀬城を守る堀でもあったんですね〜。因みに町屋(城下町)は今は宇土の市街地となっています。1962年の城の航空写真が分かりやすいので以下に掲載します↓ 石ノ瀬城跡(宇土細川蔵屋敷跡)は切れてて写ってませんが画面右斜め上延長線上に位置します。

現地案内板より写真引用

それでは先に進みましょう🏃‍♀️この案内板から10数メートル進むと本丸跡の石垣の下に10台程度駐車できる駐車場がありますので、そこに車を停めて本丸跡に登ります。

画面左の石垣の下に駐車して本丸跡への坂道を登ります。
あっ、小西行長の銅像が見えて来ました!
本丸跡は城山公園となっています。

芝生の手入れの行き届いた明るく綺麗な広場です✨写真には写ってませんが、広場にはピクニックを楽しむ若者たちや、ボール遊びをする親子連れが休日を楽しんでいらっしゃって、明るく楽しい雰囲気でした。本丸跡は宇土市民の憩いの場となっているようですね。そしてその城山公園の入り口付近に立つ小西行長公の銅像がこちらです↓

台座が高すぎて銅像本体が近くで見れない💦ので、ちょっと離れて行長さんをズームで撮った写真がこちら↓(ちょんまげまで写せないのが残念)

写実的で素晴らしい銅像ですよね!すらっとしてて知的で若々しく、商人出身っぽさも出ていて、行長さん本当にこんな姿だったんじゃないかと思わせる銅像だと感じます。小西行長の肖像画は残ってないそうなのですが、朝鮮出兵時の交渉相手だった明の使者•沈惟敬(チンイケイ)という人は小西行長の容貌を、「風神凜々」(風格があってキリッとしている)と表現しているそうです。[宇土市デジタルミュージアム動画より]まさにこの銅像のようなイケメンだったんでしょうね。

銅像の脇にも綺麗な案内板が設置してありますのでさっきの案内板と被る部分もありますが、全文引用してご紹介します。↓

         小西行長
 安土桃山時代のキリシタン大名。幼名は弥九郎、洗礼名はアゴスチノ。父は小西隆佐。兄に小西如清、弟には小西隼人らがいる。
 泉国堺(大阪府堺市)の薬種商•小西家の一族として京都に生まれたという。はじめ備前国(岡山県)岡山の領主宇喜多直家に仕えていたが、天正8年(1580)頃から豊臣秀吉に仕えた。
 秀吉の下では、室津•塩飽•小豆島を治めた後、天正16年(1588)に肥後国南半の領主として宇土城主となった。宇土城築城とともに城下町を大規模に整備し、今日における宇土市街地の基礎をつくった。
 文禄元年(1592)に始まる朝鮮出兵(文禄•慶長の役)に際しては先鋒として出陣するが、軍事優先の加藤清正(熊本城主)とは対照的に開戦当初から早期の和平交渉を模索したため、清正との間に深刻な対立を引き起こしたという。
 慶長3年(1598)の秀吉の死後は、徳川家康との関係を重視したとされるが、同5年(1600)の関ヶ原の合戦に際しては石田三成率いる西軍の中心人物となり、戦いに敗れて三成や安国寺恵瓊とともに京都で処刑された。遺体はイエズス会宣教師に引き取られたという。その死は当時のヨーロッパで大いに悼まれ、亡くなって7年後の1607年にはイタリアのジェノバで行長を主人公とする音楽劇が作られたほどであった。

上記に引き続き、ここでは行長さんについて市史で学んだこと&感じたことを少し補足したいと思います。案内板にもありますが、小西行長と加藤清正は仲が悪かったようです。そもそも秀吉が肥後国を二分し行長と清正に与えた意図は①「唐入り」の先鋒として肥後を共同統治させること②秀吉は肥後配属後も行長を側近史僚として使用し続けたため、領国を留守にしがちな行長に代わって行長領にたいしても清正のフォローを期待した。といったものでしたが、2人の関係は秀吉の思惑通りにはいきませんでした。行長は宣教師達の報告書にも「秀吉の寵臣」と書かれるほど重用されていましたし、行長は清正のような通常の領国大名とは異なり、史僚大名として諸大名への政治取次の役割を担っていたそうです。なのでどっちかといえば清正の行長に対するライバル心の方が強かったのかなぁと妄想しました。小西行長については後世あまり良く書かれないことが多いのですが、石田三成や島津氏と小西行長との間には固い絆があったようですし、明側の交渉相手である沈惟敬とも対戦国の使者同士の間柄を超えた信頼関係があった様子が残っている書簡から感じ取れました。交渉人って頭だけじゃなく人間力がないと出来ない仕事だと思うので、行長さんは人からも信頼される有能な方だったんしゃないかと思いました。総じて行長さんは信念を持って自分の役割を懸命に果たそうとした人情に厚い人という印象を受けました。因みに関ヶ原合戦段階の小西氏は、朝鮮出兵での家臣団の消耗から立ち直っておらず、関ヶ原においても国元においても軍勢は多くなかったもよう。関ヶ原合戦では小西軍の小勢を心配した石田三成が与力を付けたそうです。国元で宇土城を攻めた加藤清正も宇土城内の軍勢が予想以上に少ないことに驚いたそう。行長さんは自身の軍勢も多くない、国元も小勢であることを自覚しつつ、大阪方に自身の命運を託したのだと市史は結んでいました。

小西行長の案内板の横には、行長さんが宇土に連れて帰った朝鮮人孤児で、のちに洗礼を受けた「ジュリアおたあ」さんの案内板もありました。↓ご興味のある方は拡大してお読みください。

因みに残念ながら、本丸からの展望は木が邪魔して望めませんでした。これから行長公の銅像の裏手にある階段を降りて、本丸の石垣の周辺を歩いて駐車場まで戻りたいと思います。

画面左奥の階段を降りて、東側の石垣を撮った図。
北東の石垣の角
北側から本丸跡を望む

前述のように関ヶ原合戦後、加藤清正は宇土城を自分の隠居所とする為に宇土城を改修しましたが、今見ることができるこれらの石垣は加藤清正が積み上げさせたもので、熊本城と同じ「打ち込みハギ」という積み方だそうですよ💡また、今見えている石垣は半分程度で、あと半分は地面の下に埋まっているそうです。1612年の幕命によるものと1637年の天草島原の乱後の2度の破却をかいくぐり現存する貴重な石垣とのことです。因みに天草島原の乱の一揆軍の大将•天草四郎時貞は最初宇土城下に住んでいましたし、天草と宇土は目と鼻の先、そして宇土城はキリシタン大名だった小西行長の城でキリシタンにとってはシンボリックな城だったと思われるので、幕府としてはまた宇土城を一揆軍の本拠とされたらたまらないと思って徹底して破却にかかったと推測されます。

北側の出口に出ました。両側は住宅が建ってますが、
往時は立派な北側登城口だったような雰囲気がしますね。
元来た道を戻ります。
城の東側は宇土中学•高校の敷地となっていて、石垣横の道から行き来できるようになってます。

ここの様に、城域の館跡とかに現在学校が建っていて裏が城山(主郭跡)というパターン、熊本ではちょくちょく見受けられるのですが皆様の地元でもそうでしょうか?広い城跡は学校に転用しやすそうですものね。因みに宇土中学•高校のグラウンドは縄張図の北東部分に当たりますが、これまた立派な石垣で囲まれていてかっこよかったです

左手に宇土高校のフェンスを見ながら本丸南側に出ます。
南東の角の石垣クランク。
ここは堀だったことがよく分かりますね〜
南側からクランクになっている堀の跡を見た図
本丸南側の小道を歩いて駐車場に戻ります。
右手の木は桜かな?春はさぞかし綺麗でしょうね。

あとがき

熊本では小西行長が自領の神社や寺社を破壊したという言い伝えが残っている事もあり、加藤清正と比べて人気がないのですが、私は今回ほんの少しではありますが小西行長について調べたり客観的な史料に当たったりして見方が変わりました。
市史は、小西氏の徹底した検地政策により寺社の既得特権が奪われて零落したことが江戸時代の「耶蘇の邪教」観の元で行長の寺社破壊として語り継がれたのではと推測していました。また、加藤清正が入国時は在来の隈本城を利用し領国に対して漸進姿勢で臨んだのに対し、小西行長は入国の翌年には宇土と八代で本格的な城郭新築(宇土城と麦島城)に着手しているんですが、早期の城郭新造と(市史が推測する)徹底した検地からは、行長さんちょっと急ぎすぎた&そのスピード感に当時の肥後領民はついていけなかったんじゃないかな〜とも感じました。行長さんは豊臣秀吉の側近で秀吉さんのプランも良く理解してたはずだし、自身も頭脳派で色々スピード感もって進めたかったんだろうとは思いますが。また、行長さんは豊臣秀吉の側近として動いていたので必然的に国元にいないことが多く、領国経営は城代達に任せきりで目が届きにくかったかもな、とも思いました。逆に清正さんはじっくり腰を据えて領国経営に取り組み、在地勢力や領民との距離を縮めていったことが清正人気に繋がったのかもしれないとも妄想します。(加藤清正が築いた名城•熊本城の完成は関ヶ原後の1607年です。)

また、歴史は勝者が作ると言われますが、旧行長領だった神社の社主の著作には、''行長は内府様(家康)に敵対したので、「殿」「様」などの敬称をつけてはいけないし、「先代の殿様」などと追慕するような呼び方をしてはならないと古老達が言ってるよ"的な記述があるそうです。対照的に、加藤清正は江戸時代には「清正公さん(せいしょこさん)」と呼ばれて尊敬され信仰されるようになるのですが。小西行長についてもこれから研究が進んで、熊本でももっと再評価される日が来たらいいなと思いました。

小西行長については、ゆかしさんが分かりやすく記事にまとめられています。↓  小西行長に興味を持たれた方は是非ご覧になって下さい❣️

追伸:これで宇土散策シリーズは完結となります。次回の内容はまだ決めていませんが、3月は多忙につき、更新まで時間が開きがちになるかもしれません。気長にお待ち頂ければ幸いです🙇‍♀️

宇土城山公園(本丸跡)で休日を楽しむ人々(西側より)

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献】
•『新宇土市史』通史編第二巻 中世•近世 2007年
• 宇土市デジタルミュージアムWebサイト

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