見出し画像

小西行長って、どういう人?~『小西行長 「抹殺」されたキリシタン大名の実像 史料で読む戦国史』(鳥津亮二著)を読んでみた

 ここ数年、個人的な関心から、ネストリウス派(景教)関係の本を読んできたが、それと並行してキリシタン関係の本も読んできた。そうした中で興味をもつようになったのが、小西行長だ。それで、遠藤周作の『鉄の首枷 小西行長伝』を読んでみたところ、これは小説ではなく、史伝ではあるものの、やはり良くも悪くも遠藤周作の作品という感じが否めなかった。そこで、できれば、小説家ではなく研究者の方が書いた本で、もう少し新しい本を読んでみたいと思っていたところ、鳥津亮二著『小西行長 「抹殺」されたキリシタン大名の実像 資料で読む戦国史』(八木書店、2015年)を見つけた。鳥津氏は、八代市立博物館未来の森ミュージアムの学芸員の方だそうで、2005年、宇土市教育委員会が『小西行長基礎資料集』が刊行したのに触発され、小西行長発給文書を捜索活動をはじめられ、そうした資料の捜索・収集という基礎作業を経た上で、これらの資料を読み解いて小西行長の生涯を描いたのが本書だという。今回は、この本と、同氏による「小西行長 領内布教の様相を中心に」(『キリシタン大名 布教・政策・信仰の実相』五野井隆史監修、2019年)という小論に沿って、小西行長がどういう人物だったのか見ていきたい。


 小西行長の人生を考える上で欠かせないのは、父の小西立佐の存在である。立佐は、堺の小西一族の出身のようであるが、京都に移住し、そこでキリシタンになった。(行長は京都で生まれている。)立佐をキリスト教へと導いたのは堺の豪商・日比屋了珪で、日比屋氏は九州での対外交易ルートを持っていたという。日比屋氏がキリシタンになったのは、貿易商として南蛮貿易のルートの開拓・確保をしたかったからのようである。小西家と日比屋家は、幾重にも婚姻関係で結ばれていて、彼らは皆、キリシタンになった。堺の日比屋氏を中心とする町衆・豪商とのつながりと、キリシタンになることで得られたイエズス会人脈が、立佐を信長や秀吉に近づけ、立佐は天正13年(1585年)ごろには、河内の豊臣蔵入地(直轄地)の代官に、翌年には堺奉行に任命されたという。秀吉は、行長には、室津・小豆島という瀬戸内海の海上交通の要衝を管理させ、1585年には小豆島が行長の所領となった。南蛮貿易と大陸出兵を狙う秀吉は、そうした小西家を重宝し、行長には、肥前松浦氏や対馬の宋氏といった九州における重要な海上勢力との取次役の、天正15年(1587年)には博多町割り奉行の任務に当たらせた。この頃には、小西家は親子で、大阪(堺)→瀬戸内海(室津・小豆島)→九州(博多・長崎)という海上輸送ルートを掌握することになったようである。天正16年(1588年)、行長は肥後南部(益城郡、宇土郡、八代郡、天草郡)の領主に任命され、以後、行長の人生は、肥後南部の領国整備と対朝鮮交渉に奔走するものとなった。同時期に加藤清正が肥後(玉名郡、山鹿郡、山本郡、飽田郡、詫摩郡、菊池郡、合志郡、阿蘇郡、葦北郡)の領主に任命され、秀吉は、清正と行長に肥後を共同統治するよう求めたようだが、これは、秀吉がこの二人を大陸侵攻の先鋒として想定しており、肥後からの派遣を計画していたからだという。ただ「講和交渉」を基本姿勢とする行長と、「迅速な武力侵攻」を旨とする清正の折り合いは良くなく、朝鮮で互いに牽制しあったりした。

 行長とキリスト教の関係を見てみると、小豆島が行長の所領になった年の翌年の1586年から、行長が招いたイエズス会の宣教師セスペデスらによって小豆島での布教活動が始まり、1400人以上が洗礼を受け、室津でも3000人に及ぶ改宗者が出たという。しかし秀吉によるいわゆる「伴天連追放令」を受け、行長は、表向き、秀吉に対して棄教の意思を示し、室津や小豆島に滞在中の宣教師たちに退去を促すようになったが、室津に滞在していた宣教師オルガンティーノの説得によって、宣教師や高山右近らを小豆島に匿うことにした。南蛮貿易に欠かせないイエズス会人脈は、秀吉に仕える行長にとって、強みであると同時に泣き所であった。行長が肥後南部の領主になった際には、河内を追放された有力キリシタンたちなどが行長の親類衆(重臣)となって肥後南部に入り、肥後南部のあちこちに配置された(この辺りの詳しいことは、次回書きたい)。行長は領内での布教には慎重な態度を示していたが、九州本土から離れた天草諸島での布教活動は容認していたようである。天草の大矢野を拠点に司祭が巡回する形で、宇土・隈庄・矢部・八代でも改宗活動が行われ、この四城下で1596年までに483人が洗礼を受けたというが、これらの地は、小西一族や上述のキリシタンの親類衆が領内統治にあたっており、親類衆らによる小規模な布教活動も天草地域同様、容認していたようである。慶長3年(1598年)、秀吉が亡くなると、行長は、布教への慎重な姿勢を翻して、領内での住民改宗を進めていった。最初に布教が推進されたのが八代で、八代では25000人が洗礼を受け、新たに14の教会が建てられたという。次に布教が進められたのは宇土で、宇土では2000人が、同時期の隈庄では3000人以上が洗礼を受けたという。また矢部では4000人が洗礼を受けたという。鳥津氏によれば、この行長によるキリスト教布教とは、単に信仰心にのみ求められるものではなく、イエズス会を媒介とした対外貿易による利潤獲得の基盤作りとしてのキリスト教布教という面があるという。実際、行長領の中で最も早くかつ大規模に布教が推進されたのが、領内最大の海上交通拠点であった八代だったし、数年後の八代はイエズス会の年報に「交易と商業の盛んな大きな町」と記されるほどの経済発展を遂げたらしい。八代は、朝鮮出兵の際に物資輸送拠点として機能しており、現在のところ全容を解明する術はないらしいとはいえ、行長領内の人々が朝鮮出兵に動員されていたことを物語る資料はいくつかあるようだ。秀吉死後の行長による領内のキリスト教布教の推進=対外貿易による利潤獲得には、朝鮮出兵で悪化した財政状況を立て直すための地域経済振興という一面もあったらしい。武家出身ではなく、キリシタンでイエズス会との関係の深かった小西家らしい政策と思われるが、関ヶ原の合戦での行長の敗戦・刑死によって、この政策も道半ばで終焉してしまった。

 (標題の写真は、「豊臣外交」展の展示より。七宝十字架。朝鮮出兵期にキリシタン以外の武士の間でも十字架をアクセサリーとして首にかけることが流行ったという。)

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?