九州南北朝の史跡巡りシリーズ🍊八代編⑧ 【古麓城跡・後編】
こんにちは。今回は八代市散策レポートの8回目にして南北朝八代編の最終回となります。今回は古麓城散策の後編ということで、前置きは無しで本編に入りたいと思います。本編で散策ルート上後半の史跡をご紹介した後、古麓城あとがきと八代合戦後のまとめと続きます。少し長くなりますがお付き合い下さい🙇♀️
古麓城跡の詳細な散策ルートや古麓城の説明は前回の【古麓城跡・前編】に記載しておりますので、まだご覧になられてない場合は是非そちらからお読み下さい↓
前回は散策ルート上の鞍掛城跡までご紹介しましたので、今回は新城跡から散策スタートです🏃♀️
新城跡
新城跡は古麓城群のうち唯一公園として整備されており、休憩所やベンチなどがあります。(トイレはなかったです。)なので険しい山道を登って来て、一瞬ホッとしてしまうのですが、ここは標高約140mの古麓山の山頂なんですよね💦辺りはしんとして鳥の声しか聞こえません。
休憩所に新城跡の詳しい説明書きがありましたので、引用してご紹介いたします↓
ここで少し補足します💡前回も少し書きましたが、名和顕興領主時代の1391年、古麓城が北朝軍によって陥落し、翌1392年の南北朝合一後、名和顕興は南朝方にも関わらず本領を安堵され、そのまま八代を統治します。時代は下って戦国時代に入ると、八代の南方・人吉球磨地方の相良氏が名和氏を宇土に追いやって八代の領主となり、古麓城を5城から7城に拡張します。その拡張された城の一つがこの新城跡になります。
因みにこの相良氏は、鎌倉時代に人吉庄の地頭職を得て遠江国から人吉に下向してからというもの、巧みな処世術で動乱期を生き残り、江戸時代は人吉藩(相良藩)として存続、明治4年の廃藩置県までの実に700年、人吉を中心に治めた稀有な氏族の一つです。南北朝時代は、相良氏も宗家と分家で北朝方、南朝方に分かれて内部抗争があったようですが、菊池武光と懐良親王の時代の6代当主・相良定頼は一貫して武家方(北朝方)として活躍しました。南北朝末期の良成親王と菊池武朝の時代には、7代当主を継いだ相良前頼という人が南朝に帰順して活躍し、良成親王を喜ばせています。
さて、相良氏の本拠地である人吉球磨地方は全国的には球磨川下りや球磨焼酎で有名かと思いますが、実は私は訪れたことがありませんでした。イメージ的には山に囲まれた盆地にあり、そんな田舎に何かあるのかな?(失敬💦)と思っていたのですが、最近ひょんなことから人吉を訪れて、文化財群の絢爛豪華さに度肝を抜かれました😳正に相良氏に呼ばれた様な印象深い旅でしたので、後の記事でご紹介したいと考えています❣️
因みに八代と人吉の位置関係は以下の通り↓
さて、だいぶ脱線してしまいましたが、散策に戻りたいと思います。最終目的地、新城跡までなんとか辿り着いた訳ですが、ここからどうやって戻ろうか一思案です🤔地図でみると、元来た道を戻る方が最短距離のように思えたので、最初は同じルートを戻ろうと考えていたのですが、あの険しい道を再び通りたくはないと考えて、遠回りにはなっても懐良親王の菩提寺・悟慎寺に通じるルートで下山することにしました。結局、何処かで分かれ道を間違ったらしく、悟慎寺ではなく、手前の砥石観音の方に出てしまったのですが、元来た道を戻らなかったのは結果的に正解でした。
それでは、新城跡本丸から下ります↓ 以下、コメントはキャプションに入れていきます。
古麓城跡あとがき
古麓城群は中々険しい山城でした。特に丸山城から新城跡までのルートが険しかったので、帰りは別のルートにして正解でした。私は普段山登りやハイキングはしませんが、地図上では距離的に長く遠回りに見えても、なだらかで歩きやすい道の方が時間的にも速く、身体的な負担も少なく下山出来る事を今回学習しました。正に急がば回れですね💡また、悟真寺(正確には前身の護神寺)は生前の懐良親王と縁の深かった寺と推測されていますが、その悟真寺から山城へ通じるルートがあったということは、悟真寺は軍事的にも重要な拠点だったのかなと感じました。因みにもし、古麓城散策に行ってみようかなと思われた方、(いらっしゃらないとは思いますが)私が歩いたルートは八代市のパンフレットや現地案内板にも載っている推奨ルート(遊歩道ルート)ですが、甘く見ない方がいいです笑 登って下るまでの時間は2〜2.5hくらいですが、丸山城から新城跡まではあまり整備されておらず、倒木や滑落危険箇所もあったので、午前中に、なるべく複数で、登山用ポールをお持ちになることをお薦めいたします☝️
その後の名和氏・菊池氏と良成親王について
私が参考にした複数の文献によれば、八代での攻防戦の結果は以下の通りです。1391年7月2日、名和顕興が籠城する八丁嶽城は北朝方今川軍の攻撃を受け陥落、良成親王もやむなく一時講和を結び、名和顕興も今川軍に降ります。この時菊池武朝は所在を詳らかにせず、山中に潜んでいたといわれています。翌年の1392年、南朝朝廷が北朝の和睦案を受け入れ南北朝合一、今川了俊に出頭を命じられた菊池武朝は予想に反して「肥後守護」の地位を認められ、名和顕興とともに引き続き本領安堵されます。良成親王はその後、懐良親王九州下向からの従者・五條氏(当時の当主は五條頼治)の所領である筑後矢部(現福岡県八女市)に移り、南北朝合一後も南朝再興を図ります。
ここからは限られた資料しか読んでいない中での私の勝手な妄想です。まず、八代での合戦の終結時点で、武朝は所在不明の中で良成親王は北朝軍と講和を結んでいることから、北朝軍との戦いの混乱の中で、菊池武朝と良成親王との意思疎通ができていなかったのではないかと感じました。南北朝合一後は菊池武朝は今川了俊に従い本拠地菊池を回復している一方で、良成親王は講和に従わず筑後矢部で南朝再興を図っていて、表面上は武朝とは袂を分かった形になっています。もし八代合戦で戦乱終結後の意思疎通がなっていたら、こんな形にはなっていないのではないかと推測しました。今まで見てきたように、八代古麓城と良成親王の御所は一級河川・球磨川で隔てられているため、戦乱の中、武朝と親王は対岸にいて、意思疎通が図れなかったのかもしれないと思いました。
何はともあれ、良成親王も菊池武朝も名和顕興もこの合戦で命を落とすことがなかったため、私も気が重くならずに八代編を書き上げる事が出来たわけですが、この事でも幕府きっての智将といわれる今川了俊という人の懐の深さ、大物感を感じるんですよね。またまた勝手な想像ですが、今川了俊は八代合戦に及んで、武朝・顕興・良成親王を討ち取るまではしなくていいと指示してた可能性があるのではないか、八代戦は南北朝通じての最後の戦いとも言われ全国的には南朝朝廷の敗北は時間の問題の状況で、了俊は合戦中から名和氏と菊池氏を合一後の肥後統治に利用しようと考えていたのではないかと感じました。くわえて、今川了俊下向後、予想に反して20年も抵抗を続けた名和氏・菊池氏両者を敵ながらあっぱれと思ってたかも、と考えるのは美化しすぎでしょうか?
武朝さんも了俊さんの大きさを感じたでしょうか。合一から3年後、今川了俊は幕府から九州探題の任を解かれて一族とともに上京することになりますが、その際、武朝さんは了俊さんの帰京の世話をしています。
武朝さんは西征府の衰退期に祖父武光と父武政を相次いで失い、幼くして当主となり強敵今川了俊に対峙すること20年、その間本拠地菊池を奪われ一族の離反や南朝内部での確執もあり、その苦労は祖父である武光さんにも勝るとも劣らなかったと思われます。1381年に今川に菊池を陥落させられてから10年余りの年月を経て、敗北しながらも肥後守として本拠地菊池に戻って来た当主菊池武朝を、菊池の人々は泣いて歓迎したのではないでしょうか?思うに武朝さん、先祖が死守してきた南朝の旗を下ろさざるを得なくなったことや、長年二人三脚で戦ってきた良成親王とも袂を分かつ結果となって、内心常に葛藤と自問自答の生涯だったのではないかと思います。しかし、生き抜いて菊池家を次世代に引き継ぎ、菊池武朝申状を残した功績は計り知れないと思います。後世の人々は皆んな武朝さんに感謝していますよ、と伝えたいです✨
なお、南北朝合一後もしきりに南朝復興に心を砕き矢部にあった良成親王と、幕府に従った菊池武朝は表面上は袂を分かった形になったわけですが、1395年、大友氏の一族が矢部の良成親王を襲撃した際、五條頼治とともに菊池一族の武信という人が大友氏を撃退し、良成親王を守ったことが史料から分かっています。この菊池武信がどういう人かは分かっていませんが、私は武朝さんが良成親王を気遣って陰ながら守らせていたのではないかなんて妄想するんですよ。だって、武朝さんと良成親王は、先代から菊池家当主・征西将軍職を引き継いだ時は共に10代で、それから17年もの間、生死をともにした間柄であり、恐らく二人とも大きすぎるレジェンド級の先代(菊池武光と懐良親王)と比較され苦しんだこともあったはずなので、その点でも境遇の似た2人だったと思うのです。そんな2人の絆、そう簡単に壊れるはずはありませんから✨
次回は肥後六花の記事を挟んで、八代散策番外編として、小西行長の城・麦島城跡の散策レポートをアップ予定です。次回も宜しくお願いします❣️
最後までお読み頂き、ありがとうございました😊
【参考文献】
・八代市『八代城ものがたり』パンフレット
・中井均『城館調査の手引き』山川出版社2016年
・藤田明『征西将軍宮』熊本県教育会1915年
・川添昭二『今川了俊』吉川弘文館1964年
・南朝の里観光開発委員会 観光ガイドブック
『南朝の里をゆく』2017年
・菊池市役所『菊池一族歴史さんぽ』冊子
・八代市ホームページ
・人吉市『日本百名城 人吉城』パンフレット
・Wikipedia
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