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古代より続く火山信仰の里🌋阿蘇市歴史さんぽ② 【古坊中•阿蘇山上神社・西巌殿寺奥之院】

こんにちは。今回は阿蘇市散策レポートの2回目になります。阿蘇山は古代より火山神として信仰の対象とされてきた歴史がありますが、今回は、草千里ヶ浜と中岳火口との中間地点にある山岳仏教の霊場•古坊中遺跡と、阿蘇山上広場にある西巌殿寺奥の院並びに阿蘇山上神社の散策レポートになります。阿蘇山は有名な観光地ですので訪れたことがある方も多いと思いますが、昔、阿蘇山頂にてどのような信仰が行われていたかはご存知ない方も多いはず💡今回は山岳信仰の霊場という一味違った阿蘇の一面を感じて頂けましたら幸いです♪(6300字💦)

今回の散策地はここ!

因みに今回のお話の前提となる阿蘇の歴史と火山信仰については前回①の記事で解説しておりますので、未読の方は是非ご一読ください❣️↓

それでは早速、行ってみましょう🏃‍♀️


古坊中

前回の記事でご紹介した草千里ヶ浜から、登山道を中岳火口に向かって進むと、途中、道の脇に古坊中遺跡の道標が現れます。↓

ここは標高1100m、火口から約1〜2km地点。風向きにもよりますが、すでに濃い硫黄の匂いが漂っています。道標が建っている草千里ヶ浜と中岳火口の間の平坦地一帯は「古坊中」と呼ばれ、かつては山岳仏教の一大霊場でした。中世の時代の最盛期には37の坊舎(寺院)と51の庵(修行小屋)が建ち並び、衆徒および行者と呼ばれる僧侶、そして山伏達200人程度が生活していたそうです。今の荒涼とした原野からはなかなか想像できませんよね↓

古坊中道標前の駐車スペースから中岳火口を望む。
少し白く煙が上がって見えるのが中岳火口。
この平野一帯に寺坊が建ち並んでいた。

平野の中央を西から東へ火口へ向かって約1kmにわたり道路が延び、道の両側に整然と92の区画が並んでいたそうです。その土地の区画や土塁の跡が今でもはっきり残っているとの事だったので、道標がある周辺の道沿いを中心に探してみたのですが、草が生い茂っていることもあり見つける事はできませんでした。なので、遺跡といっても当時を偲ばせるものは道標の横に集められた数基の石塔のみになります。でも想像力逞しい私は五感でイメージできますよ💭中岳の噴煙の下に整然と並ぶ寺坊群、硫黄と線香の混ざった匂い、僧侶たちの読経に山伏たちが吹くほら貝…現代では体感できない独特で壮観な世界が✨

さてここで、そもそも山岳仏教って何?という方もいらっしゃると思いますので、阿蘇町史の山岳仏教についての記述が分かりやすかったので以下に引用させていただき、説明といたします。↓

 奈良時代末、国家の保護を受ける南都諸大寺のあり方に懐疑の念を抱く僧侶達の中から、都を捨てて各地の霊山に入って修行に励む者が多くなった。その中から最澄は天台宗を、空海は真言宗を起こした。ともに山林修行を重んじて、都から離れた比叡山と高野山に寺院を設けた。
 天台•真言の密教系山岳仏教の興盛によって加持祈祷が呪術として重んじられるようになった。山岳で苦行を重ねた僧侶は験力が優れていると尊敬され、各地の山岳に籠って霊験を得ようと修行する僧侶は行者と呼ばれるようになった。(中略)
 火を噴く阿蘇山は霊山として人々の畏敬の対象であり、密教系の僧侶や呪術修行者が験力を得るために山岳修行を行うにふさわしい場所だった。

阿蘇町市 第一巻 通史編 p.686-687

※因みに「古坊中」とは、阿蘇山上にあった本堂を含めた中岳火口山麓の寺坊群全体を指す呼び方ですが、お寺としての総称は「阿蘇山西巌殿寺(さいがんでんじ)」で、天台宗のお寺になります。12世紀末(平安時代末)には既に一大勢力として存在していたことが史料から分かっています。

山岳寺院と言えば、個人的には山深い森の中というイメージがありましたが、ここは全国的にも最も環境が厳しい山岳寺院だったんじゃないかと推測します。だって活火山ですからね〜😵今みたいに観測技術も進歩してないわけですし、いつ噴火するかわからない中、修行も正に命懸けだったのではないでしょうか。実際当時の史料には、活発な火山活動により古坊中の坊舎などがたびたび被害を受けていた様子が記されているそうです。記述から中世には、土砂噴出、火山灰噴出、水蒸気爆発、ストロンボリ式噴火などを起こしていたことが伺え、現近代の中岳と同じような火山活動があったようです。

とはいえ、現在でも厳重な噴火監視体制の下、多くの観光客が火口見物しているように、昔も全国からたくさんの参詣者がお参りに訪れていたもよう。室町時代以降の春と秋の彼岸には「御嶽山参り(オンタケサンマイリ)」と称して多くの参詣者が山伏の先達で山上に登り、火口を遥拝したそうです。当時の僧や山伏たちは参詣者にお札を売ったり、案内役をしたり、坊舎や庵は参詣者の宿坊にもなったそうですから、古坊中の修行者たちは現在でいうところの入場料徴収やガイドみたいなこともしていたようですね💡多分参詣者がもたらすお金も古坊中の大きな収入源だんたんじゃないかと推測します🤔

え、ちょっと待ってよ。阿蘇山上は仏教勢力が抑えているような印象だけど、火口を含め阿蘇全域は昔から阿蘇社と阿蘇大宮司のシマだよね⁉️と思った方、いらっしゃると思います。その謎は、これから阿蘇山上広場に向かい、そちらでご説明しましょう💡

阿蘇山上広場

阿蘇山上広場は、一般車用の広い駐車場や阿蘇駅と阿蘇山上広場を結ぶシャトルバスの発着点「阿蘇山上ターミナル」などがある火口見学の拠点です。ここから遊歩道を歩き火口まで登れますし、更に有料道路を通って火口のすぐ近くまで車で行くこともできます。そして今回の目的地の阿蘇山上神社と西巌殿寺奥之院は、バスターミナルの奥に前後に並んで建っています。位置関係はこんな感じ↓

それでは早速、歴史が古い順にご紹介していくこととしましょう!

阿蘇山上神社

現在山上神社は阿蘇神社の奥宮的な位置付けですが、歴史的にはこちらが古く、火山神・健磐龍命(たけいわたつのみこと)を祀った最初の社殿になります。のちに麓の宮地に阿蘇神社の社殿が設けられると、阿蘇神社は下宮、山上神社は上宮と呼ばれました。
古代から阿蘇中岳火口の湯溜まりは「神霊池」と呼ばれ、健磐龍命の神宮とみなされていました。そのため山上神社には神殿は無く、火口(神霊池)に向かって遥拝するかたちで拝殿だけが建てられています。

古来「神霊池」と呼ばれてきた中岳第一火口の湯溜まり
画像は草千里ヶ浜の案内板より。

古代、火口は国家祈祷の対象とされてきました。神霊池の枯渇や沸騰などの変異は国家的災いの前兆であり、噴火は神の意思として畏怖され、太宰府を通じて都の朝廷に報告されていました。神霊池に異変がある都度、阿蘇氏によって火口を鎮めるための祭祀が執り行われました。また健磐龍命は水を司る神でもあり旱魃の際に祈れば雨をもたらす神としても信仰されました。9世紀には阿蘇社は朝廷から遣唐使航海安全の祈祷を宗像社・宇佐社とともに命じられています。このように阿蘇の神は天下国家に利益をもたらす神として評価が高かったのです💡
最初に火口での祭祀を取り行っていたのは阿蘇氏でしたが、阿蘇氏は平安後期には大宮司となって武家領主の性格が強くなり、神事は社家集団に任せられるようになりました。宮地に阿蘇社(下宮)の社殿が設けられると、神事は下宮を中心に行われるようになります。山上の神霊池は上宮として神事は継続されますが、上宮での神事は天宮祝(てんぎゅうのはふり)と呼ばれる担当社家が執り行うようになりました。
火口での祭祀はのちに行われなくなってしまったのですが、近代に入り中世に行われていた火口に対する祭りが山上神社祭として復活。現在では6月上旬に山上神社で神事が行われた後、火口に向かって御幣を投げ入れる「火口鎮祭」が行われているそうです💡

※因みに阿蘇社には大宮司をトップとして天宮祝の他にも阿蘇社12神を司る12の祝(神官)と各摂社の祝など、たくさんの社家が存在しました。華麗なる阿蘇社ファミリーですね✨古坊中の仏僧集団と数において負けてはいなかったことでしょう。

そんな由緒ある阿蘇山上神社ですが、現在は麓の阿蘇神社に比べて認知度が低く、参拝客もほとんどいません。近年までは登山客はみな山上神社の境内を通って火口まで歩いて向かっていたそうですが、火口までの有料自動車道やロープウェイが開通してからは本来の境内経由の登山道は誰も通らなくなったそう。現在徒歩での登山者は有料自動車道沿いの遊歩道を案内されるので、私も今まで山上神社と背後の登山道の存在は知りませんでした💦更に、2016年の熊本地震によってロープウェイは解体、山上神社も被災し、お世辞にも立派とは言えない姿になってしまっています。以前は鉄筋コンクリート造の立派な神門が拝殿の前に建っていたみたいなんですが。。山上神社も阿蘇神社同様に立派に復旧されたらいいなと思いますが、現状ではなかなか難しいのでしょうか。

損傷が激しい阿蘇山上神社拝殿
山上神社由緒書。ご興味があれば拡大してお読み下さい。

阿蘇山本堂 西巌殿寺奥之院

次は、阿蘇山上神社の手前に建つ西巌殿寺奥之院のご紹介です。阿蘇山西巌殿寺の開祖は最栄読師という方ですが、その出自と時期には2つの説があります。ひとつは神亀3年(726)に天竺(インド)から来朝したというもので、もう一つは天養元年(1144)に比叡山から移り住んだというものです。本記事では私の独断と偏見で、後者の説に沿って話を展開させていただきます🙇‍♀️

平安時代末期の天養元年(1144)、比叡山慈恵大師の弟子である最栄が阿蘇大宮司友孝の許可を得て阿蘇山に居住しました。最栄は西の厳(いわや)に自ら彫った十一面観音を安置し、一心に法華経を唱えたことから人々は最栄読師と呼びました。そして西巌殿寺には以下の伝説が残っています。↓ 

最栄が火口の中を覗くと、そこには目を覆うような地獄の光景が広がっていました。その時、9つの頭をもつ大きな龍が天空をついて現れます。その龍は阿蘇神社の祭神、健磐龍命の変化した姿でしたが、最栄に火口を見るように告げました。最栄が火口の中を覗きこむと、そこには亡者たちをかばい鬼に打たれる慈愛に満ちた十一面観世音菩薩の姿があったのです。その十一面観世音菩薩のお姿に心打たれた最栄は、登山途中見つけた霊木に十一面観世音菩薩のお姿を彫りました。そして火口の西の洞窟に安置してご本尊として祀り、毎日法華経を読んで修行に励みました。

西巌殿寺ホームページを参考にしました。

健磐龍命の化身である九頭龍は、水神としての姿と火山の噴煙をイメージさせます。また、地獄の風景は赤い溶岩噴出を伴う噴火を連想させますよね💡

かくして阿蘇山上には密教系の僧侶や修験者たちがたくさん居住するようになり、西巌殿(にしのいわと)に本堂が建設されます。山上の僧侶集団は、本堂を拠点として草千里ヶ浜まで延びる参道を中心に坊中を結成。彼らは仏が神の姿をとって顕れるという本地垂迹説により、健磐龍命の本地を十一面観音とする阿蘇火山信仰を展開しました。こうして上宮と本堂は一体として据えられ、山上僧侶集団による阿蘇山支配が強化されていきました。

その過程で当然予想できる事態が発生します。12世紀末、前述した阿蘇社上宮(山上神社)の祭祀を司る天宮祝と、山上に居住する僧侶との間で争いが起こりました。しかし時代は神仏習合・本地垂迹が当たり前の世界観でしたから、宗教間の争いには発展しません。結局、天宮祝は僧侶の勢力に押されて山上の権利の一部を譲歩します。えっ、阿蘇大宮司さん、それでいいの⁈ と思ってしまいますが、そこには阿蘇社側の時代背景もあるのです💡

麓の村に阿蘇社下宮(現在の阿蘇神社)が建てられた時期は明確ではないようですが、おそらく平安末期と思われます。下宮の建設により阿蘇社の神事は下宮が中心となっていき、山上と山下が分離していきます。すなわち、阿蘇氏の氏神として、かつ阿蘇社領の農村社会の鎮守神として下宮が重視されるようになると、相対的に上宮の火口信仰は弱まっていきました。その弱まった火口信仰を支え、仏教の側から再生させたのが古坊中の僧侶集団という構図になります。

因みに、西巌殿寺は阿蘇社の神宮寺ではありません。(阿蘇社の神宮寺は青龍寺といって別にありました。)西巌殿寺は衆徒(僧侶)が中心となり内談で協議する自立的な組織でしたが、阿蘇大宮司の規制と保護の下における運営でした。南北朝時代の天正6年(1351)に、衆徒達は阿蘇山は昔より阿蘇大宮司の配下であるとする起請文を提出しています。因みに、この時代も火口(神霊池)の異変は天下国家の変災を予知するものとの見方は変わらず続いており、衆徒達が神霊池の異変を阿蘇大宮司に報告する役目を担っていたそうです💡

さて、現在山上広場に建っている西巌殿寺奥之院は旧跡復興運動により本堂跡付近に明治22年に建てられたものが熊本地震で被災した後、建てなおされたものです。室町時代以降、春と秋に阿蘇山の火口へ詣でる「オンダケサンマイリ」には、昔より若い男女が参加し夫婦の契りを交わしたと言われていることから、「恋人の聖地」にも選ばれているもよう。

入り口には白・黄・緑・紫・赤の五縁結びがかかる。

中に入ると大仏の頭のロボット?が喋りながら恋みくじを宣伝していて、ちょっと怖かったです💦由緒あるお寺さんですが、若干、商業化に走り過ぎな気が😅

古坊中のその後

最後に、西巌殿寺古坊中のその後について述べておきたいと思います。阿蘇大宮司の庇護のもと中世にかけて繁栄した古坊中でしたが、戦国時代の天正年間、阿蘇氏を攻めた島津勢の兵火によって焼き払われ、さらに同時期の度重なる阿蘇山の噴火によって廃れてしまい、僧侶や山伏たちは山を下り四散していきました。その後、肥後に入国した加藤清正によって坊中は麓の黒川村(今の阿蘇駅近く)に再興されました。この再興された坊中を中世の古坊中に対して新坊中もしくは麓坊中といいます。その場所が先週猫ちゃんの写真を投稿した一帯なので、麓坊中については後日そちらの散策記事でレポート予定です。(現在、麓坊中の各坊は明治の神仏分離で廃寺となりありませんが、西巌殿寺が単独の寺院として存続しています。)また、島津氏の侵攻により衰退した阿蘇社と阿蘇大宮司については別の記事でお話ししたいと思います。

さて、今回も分かりにくい長文の記事になってしまいました💦(私も全体像把握するの難しかったです。そして理解が足りず、記載内容が若干間違っている箇所があったらごめんなさい🙇‍♀️)以降の阿蘇市シリーズは写真多めの楽しい散策記事にしたいと思っております。次回の阿蘇③は、いよいよ中岳火口をレポートしたいと思います。次回もよろしくお願いします❣️(来週は別の軽めの記事を投稿予定です。)

古坊中の石塔群。噴火の影響か、兵火に焼かれたためか、焼けて黒くなっているのが分かる。古坊中末期の過酷な歴史を物語っているよう。

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献】
•柳田快明『中世の阿蘇社と阿蘇氏』ー謎多き大宮司一族 戎光祥出版 2019年
•阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社 2007年
•杉本尚雄『中世の神社と社領』吉川弘文館 1959
•阿蘇町史 第1巻 通史編 2004年
•阿蘇神社HP
•阿蘇山西巌殿寺HP
•阿蘇市HP
•熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト
•熊本県公式観光サイト
•阿蘇山上観光HP

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