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伝説に彩られた古代山岳寺院 池辺寺跡🐉 【前編】

こんにちは。昨日は以前から訪れたいと思っていた熊本市西区の国指定史跡•池辺寺(ちへんじ)跡を散策してきました。奈良時代初頭(和銅年間)に創建され、平安時代初頭(9世紀代)に現地に建立されたとされる池辺寺跡は、龍伝説や、全国に類を見ない整然と並ぶ百基の石塔が特徴的な山岳寺院跡です。私は平安初期の熊本にこんなに壮大で独創的な寺院が存在していた事に驚き感動しました✨池辺寺跡の遺構についてはまだ分かっていない点も多いようですが、皆様も古代のロマンと謎を一緒に楽しんで頂けましたら幸いです💓
(記事が長文になるため、今回も前編•後編に分けます🙇‍♀️前編2800字)

今回の散策地はここ!

池辺寺創建にまつわる龍伝説

前編は池辺寺創建にまつわる伝説から始めたいと思います。これから訪れる古代池辺寺跡は、三方を山に囲まれた谷の突き当たりに位置しています。山の麓には昔、谷川が注ぎ込む味生池(あじうのいけ)がありました。『続日本紀』によると、味生池は肥後国司•道君首名(みちのきみのおびとな)が和銅年間に築いた灌漑用の池で、江戸時代に写された『池辺寺縁起絵巻』によると、この味生池に棲んでいた龍を鎮めるために和銅3年(710)に建てられた寺が池辺寺だそうです。
※味生池は加藤清正によって埋め立てられ、現在はありません。
まずは、池辺寺跡のある百塚地区までのルート途中にある堂床地区に立ち寄ります。堂床の高台からは味生池推定地が望めます。

池辺寺位置図 現地案内板より
池辺寺周辺の遠景 現地案内板より

それでは早速、行ってみましょう🚙 史跡巡りあるあるですが、集落内の細い坂道を登って行きますので、スピードはゆっくり安全運転で😅
因みに堂床の案内板がある展望所?には特に駐車場はありません。行こうと思われる方は、山側にちょっとした離合スペースがあるのでそこに駐車すればOKと思われます。(とはいえ狭い道なので、地元の方の車両にご配慮下さい。)で、堂床の展望所の案内板です。↓

案内板の味生池推定範囲と、写真画面上部の実際の風景を見比べてください。今見えている水田一帯が広大な池だったんですね〜😳
以下、案内板を引用します。↓

      堂床(どうとこ)地区
 今から約1300年前頃、眼下に見える部分に「味生池」が作られました。この池は、当時の国司•道君首名によって、田畑に水を送るための灌漑用ため池として整備されたものです。
 「池辺寺」という名は、この池の辺りに建立された寺であることから名づけられました。ここ堂床地区からは、塔の中心の柱の下に設置される「塔心礎」が発見されたことから、三重塔があったと想定されています。下から見上げると立派な塔がそびえ立っていたことでしょう。

堂床地区に建つ三重塔の推定図と塔心礎
現地案内板より

熊本ではこういった山中に建つ巨大な三重塔は見かけないので、もし現存していたら荘厳な景観で貴重だったろうなと思いました。復元とかされないかな〜。(←多分無理)現地案内板や熊本市パンフレットによると、堂床地区ではたくさんの瓦や土器、灯明皿が出土しており、出土品から塔があったのは百塚地区の池辺寺跡と同じ9世紀で、三重塔は池辺寺のシンボル的存在だったのではないかとのことです。

さて、池辺寺の龍伝説についてもっと知りたいと思われる方もいらっしゃるかと思いますので、熊本市のパンフレットを引用せていただき『池辺寺縁起絵巻』の龍に関係する逸話をご紹介します。(池辺寺にまつわる7つの逸話のうち1〜4話まで)

第一話 「浮木の観音」
昔、味生池には悪い龍が住み、人々に害を与えていました。そこで時の国司が妙観山の観音様に参ると、「池のほとりに寺を建て、法会を続けよ」とお告げがあったので、奈良の都に行って天皇に願い、真澄という高僧を招くことになりました。
真澄は和銅三(七一〇)年に大変立派な寺を建てました。何年も大規模な法会を続け、ようやく龍を鎮めると、ふたたび観音様のお告げがあり、お告げのとおり池に行くと、水面に木が浮かんでいました。その木で正観音像を彫り、ご本尊にしたということです。

第二話 「降りくだる独鈷」
大同元(八〇六)年弘法大師空海が唐で修行中に、三つの法器を日本に向かって投げました。三鈷杵は高野山、五鈷杵は京の東寺、独鈷杵は池辺寺のある妙観山に落ち、寺主暁覚が白犬に導かれて独鈷杵を発見したことから、妙観山を独鈷山と呼ぶようになりました。

第三話 「鳴落ちる金鈴」
子どもの頃池辺寺で修行をし、後に京都無動寺の高僧相應に教えを受けた仙海は延喜12(912)年に京より帰国し、池辺寺の僧となった。ある日、鈴の音がしたかと思うと、師である相應が死ぬ時に投げ与えた振鈴が、仙海のもとに空から落ちてきました。

第四話 「仙海の法験」
真澄の法会により鎮められていた龍が、女の姿に化身し独鈷と鈴を持ち出しました。龍の仕業と知った仙海が池のほとりに不動明王を安置し読経すると、池から独鈷と鈴がもどり、龍は改心しました。龍は、旱魃の際に鈴と独鈷を用いて修法すれば、必ず雨を降らせると約束したということです。

熊本市「史跡 池辺寺跡」パンフレットより 
池辺寺縁起絵巻 第四話 僧仙海が龍を改心させるの図
熊本市「史跡 池辺寺跡」パンフレットより
熊本市「国史跡 池辺寺跡」パンフレットより

池辺寺の龍伝説、興味深いですね💡私は、龍は日本では水神として祀られることが多いので、悪龍が人々に害を与えたというのは、味生池が大雨で氾濫して洪水を起こしたことの暗喩ではないかと想像しました。更に、織豊時代〜熊本を治めた加藤清正が、周辺の田畑を潤すために氾濫を起こす味生池はいらん!とかいって代替策を講じて池は埋め立てちゃったんじゃないかな?と妄想しました笑(加藤清正は治水工事の天才でしたから。)でも、龍のウロコが寺宝として残っているので、味生池に棲んでいた龍は実在したのかもしれませんね🐉✨

さて、次回【後編】では、百塚地区に移動し、古代池辺寺跡をレポートします。本堂の建物跡の背後に整然と並ぶ百基の石塔跡は壮観でしたよ✨
次回も宜しくお願いします❣️

※因みに古代に創建された池辺寺は、その後、繁栄•荒廃•再興を繰り返し、明治初頭の廃仏毀釈で廃寺になるまで存続していました。ただ、廃寺を迎えた時、池辺寺は池上地区に移って久しく、古い時代の池辺寺のことは分からなくなっていました。昭和61年、地元の言い伝えや古い笠塔婆の碑文を手がかりに百塚地区の発掘調査を開始。整然と並ぶ百基の石塔や本堂の礎石群が見つかり、ついに古の池辺寺の中心地と特定されました。次回ご紹介する池辺寺跡はこの古代(平安時代初頭)池辺寺遺跡になります。

古代池辺寺想像図
熊本市「国史跡 池辺寺跡」パンフレットより

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献•Webサイト】
熊本市ホームページ
熊本市「国史跡 池辺寺跡」パンフレット
熊本市「史跡 池辺寺跡」パンフレット

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