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「だって庇うともっと怒るから、、、」

と言う言葉に激しく反発していたのは小学校高学年の頃かな。そこから18歳で家を出るまで母と私の戦争は苛烈を極め、最後はお互いの命を天秤にかけていた。

だけど母が大好きで愛されたくて、そんな矛盾を抱えた自分を1ミリも許す事が出来なかった。頭がおかしいと自分を何度も罵って、怒り、罪悪感、寂しさで胸がいっぱいだった私は逃走するように東京へ向かった。

それから数年、成人式以外で帰る事はなかった。



向き合えなかった。

もう誰も怨みたくなんてなかった。憎悪を抱える自分が、心が汚れきってしまったようで嫌で嫌で仕方がなくて

当時、唯一の理解者だと信じていた彼への「好き」という気持ちで心をいっぱいにしてたかった。怒り、憎悪、殺意、自己破壊的衝動、そんな物は1つも感じたくなかった。

天使のような心で可愛い服を着てる私でいたかった。それが、あの頃の私が不幸な自分にしてあげられる最大限の贈り物だったんだと、今は思う。



記憶の始まりは3歳で、その頃からほぼ終日緊張感に包まれた家庭だった。父を怒らせないように細心の注意を払う母に従って、私もなるべく静かにお利口にしようとしていた。

けれど喘息になれば怒られるし、何か気に入らなければ物を投げ付けられる、いつ激昂されてもおかしくないピリピリと張り詰めた空気が私の日常で、近所の祖父母の家にいる時間は安心していられた気がする。

ただ、通い出した保育園ではかなり早い段階から虐めの対象になっていた。そこから中学の終わりまで、人間関係が変わらずそれが12年続いた。今考えるとこれも不安な環境から来るものだったのかな。




それから心の糸が切れた11歳の頃まで「何かおかしいぞ、、、、、、?」と思いながらも、祖母の宗教と言うインパクト強めな問題の渦中にいたのもあり、感情のコントロールが効かない父と助けを求めても決して応えてくれない母、私とは反対に父に殴られも叩かれもしない妹という環境で、それなりに順調に育ちました。



なぜか突然、心の糸が切れて不登校を始めてみたものの、泣き叫ぶ私の髪を掴んで引きずって校門まで連れて行くという母からの猛攻に合ったので、私も全力で戦いを挑みました。笑

ただ謝ってほしかったから。父から私を守れなかった自分の弱さを、祖母の宗教に巻き込まれて混乱している事を謝ってさえくれれば、大好きな母を大好きなままでいられるのに。という、未熟で浅はかな願い。

けれど母から返って来た言葉は「だって庇うともっと怒るから、、、、、、早く終わらせるには放っておくしかないでしょ?」



「なん…だと……!?」



一ミクロンも納得出来なかった私の怒りは収まらず、決死の覚悟で理解を勝ち得るために「いざ、尋常に勝負‼︎‼︎‼︎」と母に挑むこと7年。

一緒に居たらどっちか死ぬなと思ったので、私が家を出ました。その頃も、横になって起きてはいられるけど、座っていたり立っていたりすると頭痛や体の痛みで辛かった。

だけど、幼少期からの体の弱さのせいだと思っていました。これもちょっと違ったっぽいと、気付いたのは昨日です。笑





自分の人生を整理したくて書きましたが、私は可哀想と思われたくないし誰も憎みたくはないと言うのが基本理念なので、取り扱える心情になるまでこの問題をそっとしておいたようです。

バカだとも思ったけれどそれも仕方がない。この道でしか気付けなかったし、今日この地点にはこられなかった。

だから、昨日までこれが普通なんだって事にして気付かないように、とりあえず自分を責めるというフェーズにおりました。笑




でも、小学生の頃からの慢性的な疲労感と無気力感、それに終止符が打てるなら、私はわたしのために幾らでも向き合う。

その覚悟がようやく出来ました。

ありがとう。

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