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日々の雑記

自分でいるということに自覚的に疑いをかけ不可解さを認識して以来、自分と認識してしまう仕組みや自分というものがある驚きに驚ける感性を意識的に手放さないように心がけている。

僕個人の感覚しかわからないので、もちろん人によるとも思うが、経験を感性のまま大事に手放さないということは実は結構難しい。

感性は人間のやり取りの源に近いものだが、そのままだと何かと扱いづらく、置き換えて効率化してしまうことが多い。最たるものが言葉だ。常に僕は言葉は感性から発せられるzipフェイルのようなものだと思っていて、感性の中からある程度の枠組みをチョイスして「美しい」とか「楽しい」みたいな文字に置き換えている。その作業を皆が皆、すごい速度で日々こなしていっている。
ある経験をする。そうするとまず人は言葉で理解しようとするのが常であるからだ。しかしながら言葉にした瞬間、圧縮するので大体の場合は経験が劣化せざる得ない。しかし効率的な表現としては絵画や詩(詩は言葉ではないとして)音楽などより一般的には都合がいい。

そして言葉にして反復すると、基本的に脳みそは効率優先なので(たぶん!)形骸化していく。記号だけが残っていく。

まず第一に、このことに自覚的に経験した瞬間にできるだけ言葉になる手前を味わう作法を身につけたい。できるだけ自身の感性にとどめて発酵させて臭いとして残しておくことが大事であると日々考えている。
というのは嘘で、今書きながら改めて思っている。聞いたことのある言い回しでいうと、記録よりも記憶。使われ方は違うがおそらく皆があまりにも人に伝えることを優先しすぎているのではないだろうか。

そして、ここでいう記憶はその時の雰囲気の記憶である。雰囲気とはまたとても曖昧な言葉だがそこには色々が含まれているはずだ。ああそうだ。クリオリアだ。おそらくクオリアという言葉だと思う。こうやって圧縮された言葉で圧縮以前のことを匂わせていく作業は僕には難しい。本当は言葉自体にできるだけ消費されきってない抽象的な含みがあってかつみんな知ってるものを使いたい。

とにかく自分の中に、人と共有以前の、もしくは共有しきれないものをそのままに、持っておくことが一つ大事かもしれない。僕にとってはそれが「自分である」という、非常に基本的なことでここに常に驚く努力をしている。
一応、経済的意味の社会では一円の足しにもならないことも付け加えておく。



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