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本の雑記

「姿ハ似セ難ク、意ハ似セ易シ」という本居宣長の一節がある。小林秀雄の「考えるヒント」という本の中で引かれていた一節だ。姿とは言葉の姿のことで、言葉の意味を似せることは簡単だけれども、言葉の姿を似せることは難しいと言っている。

これが、なかなか難しかった。
普通ならば逆に考える。口真似は容易いが、内容が肝心だと。
読むのは何回目だろう。僕にとっては折に触れて読み返したい文章だ。

宣長の言葉の背景には、他の学者から、
「上世の古人の歌の調べを真似をして歌っている奴がいるが、歌の姿は似ていても心が俗っぽくて全然ダメだね。」
と揶揄されたことに対しての言葉であった。
また、加えて宣長は、「言葉の姿を見分けがつかぬまで似せなければ、いうまでもなく意まで似せることなんかできるものだろうか。そういう難しさもわからないようで、いかに真偽が見極められるのかね。」と。

揶揄した学者が、表面だけ似せても内容が伴ってないからダメである。と言ったことに対して、宣長は、いやいや表面即内容である。と言っている。
表面と内容が切り分けられるような見方をしてはダメだというのだ。姿を似せることはすなわち心を似せることだと。

確かに言葉の特性上、意味だけ取り出して別の言い換えができる。そして言われ方が変わっても、変わらぬ意味の方が大事とされる。
それは社会的な言葉の使われ方として、当たり前のように感じる。ここの当たり前から僕たちはどうしても動くことが困難なところが、そのまま理解の困難に通じる。社会では言葉の便利な部分だけが必要である。
確かにそれも言葉の一側面だが、より旨味があるのは歌などで現れる言葉だよ。と宣長と小林秀雄は僕らに教えてくれる。

言葉の発生は、最初に意味があって言葉を当てたわけではない。意味も言葉だからだ。必然的に言葉は言葉以外から発生することが求められる。
宣長を小林が代弁するには、言葉は情(心でもいいと思う)から「おのずから」出てきたものと言っている。いわば、感動の感嘆詞とでもいうものか。小林秀雄はこの考えは、アリストテレスの詩学に通じるものがあると言っているが、僕は読んでないからわからない。
そして、だから形のない情に、形を当てたのが歌だという。言葉の発生の現場に立ち会い、適切な形を与えられるのが歌人や詩人だ。

なるほど。ということは、そうして生まれた言葉の姿は、代替えの効かない心の形である。そしてそれは意味以上の何かも孕んでいる形ということだ。意味はその一側面に過ぎない。情にはもっといろんなものが詰まっている。これは誰でも納得できる誰にでも当たり前な事実である。
だから姿を真似るのが難しいとは、心を真似ることが難しいに直結する。意味は知ってしまえば、いやむしろ知らなくても使えてしまったりする。
言葉の姿が心の姿なら、まず心を知らないと姿は現れない。歌の難しさはそういうところにある。

僕たち日常の生活人が歌や詩をわかろうとして、わかりかねることがよくあると思うが、それは意味で片付けようとするためで、意味ではやっつけきれないのが歌や詩である。
しかし、一つ一つは日常と同じ言葉である。言葉であるのに意味で片付けられない。では歌や詩はどうわかるものなのだろうか。
宣長と小林秀雄はわかるものではないという。それは味わうしかないと。
味わうとはすごく身体的なことで、根気がいる作業だと僕は思う。わからなさに付き合う困難さに等しい。僕たちは意味で処理する世界に加速的に突き進んでいる。

歌で歌われる言葉は、言葉の原液の状態だ。心と過不足なく、ピッタリとくっついて離れない。だから姿を変えることとは、そのまま心を変えるに等しい。
僕らの生活の言葉はそうして生まれた言葉の意味だけ拝借して、うまいことやっている。原液を割って使っている。だから言い換えても問題はない。割るものを変えれば少しずつ味も変化に富んでそれはそれで楽しい。
生まれた意味から、また意味が生まれて、少しずつ長い時間をかけて良くも悪くも原液すらわからない言葉たちが、増えに増えたんじゃないかと考えてしまう。

原液の旨みを知っている両人は、一部の好事家の嗜みに、言葉が堕落したと嘆いている。宣長が嘆いたのは江戸時代で、小林が嘆いたのは昭和である。
一見、老害の小言のようだが、言葉の真髄に触れているこのタッグの迫力と説得力には、新書にはない味わいがある。これもまた姿を変えることのできない文章だなと思い、やはり折に触れてまた読み返してみようと思う。




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