初日記

Hello Note.

今日からNoteで執筆活動をしていこうと思う。

それにしても、これほど散歩に適した季節はない。今日は朝から父と山登りに行った。この習慣はこれからもずっと継続していきたいと思う。

季節様

ずっとこのままでいてください。よろしくお願いいたします。                      

Taisei

さて、なにを書こうか。何を書いていくかは特段決まっていない。とりあえず、気が向いたら机に座ってPCを立ち上げ、Noteを開いてその場で思いついたことをつらつらと書いていくスタイルにしようと思う。

なので、突然小説を書き始めるかもしれないし、拙い個人的な研究結果を報告するかもしれないし、見た映画の感想を書き始めるかもしれない。社会に対する悪口を書き始めるかもしれないし、世界一周の旅ブログへと化すかもしれない。

自分がその時、机の前に座った瞬間に思いついたことを好きなだけ好きなように書き連ねたい。

最近はもっぱら、哲学書を読むことにハマっている。実は中学生ぐらいのころから哲学という言葉が気になってはいて、「偉人 名言」と検索して読むのは好きだった。

抽象的なことが好きなのかもしれない。あと俯瞰的に物事を見るのが好きなのかもしれない。哲学はそれにぴったりとハマる学問のような気がする。

僕が哲学に見出している楽しさは、自分の世界に対する捉え方を変えられるところだ。哲学書を学んだことで収入が増えたり友達が増えたり、モテたりするわけじゃない。

自分の中の世界を物理的に変えるためにはそんなに役立っていないのかもしれない。

けど、こうして言語空間に触れることが好きになったし、多少小難しい言語でも理解しようとする姿勢は身についたように思う。

哲学を学べば優れた人格が手に入るのではないかという幻想が多少はある。おそらくただの幻想にすぎないだろうが。

結局、人から好かれたい、人より何かしら人格的に優れていたいという気持ちがあり、哲学がそれを叶えてくれるのではないかという期待があるのは嘘ではない。

「人格的に優れる」とは何だろう。「優れる」という文字通り、それは他者と比較した結果、自分の方が人格的に勝っているという優劣関係を意味する。

「人格」という尺度で人を序列化していき、自分はその中でできるだけ先頭の方に位置していたいという意思があるということだが、よく考えてみたらだいぶ曖昧な願いである。

優劣を決めるには、社会の構成員が認める絶対的な人格の尺度が存在しており、それに全員が合意している場合にのみ成立するだろう。しかし、そんな尺度は存在しないのではないか。

じゃあ自分は何を目指しているのだろう。おそらく、この「人格的に優れること」は、いずれ達成される類のものではない。日々、自分そのも人格的に更新し続けるという態度、言い換えればより優れた人格形成にコミットするという姿勢そのものを意味するのかもしれない。

そう考えると、例えば自分は物事を完璧に理解したと思って上からモノを言う態度や、断定的な決めつけなどは直感的に優れた行動とは言えなさそうだ。

疲れたな。これくらいにします。


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